マタイ22章7節「焼き払われる町」??

【問】「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」の意味とは?
【答】二ペトロ3章10節では「天」「地」が焼かれて滅びることが暗示されますが、詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を「天」「地」に喩えます。黙示録18章8節「彼女(大淫婦)は火で焼かれる」。

【問】なぜ旧約聖書の預言書は、エルサレムが神に対する背信に走った時、娼婦や遊女に喩えましたか?
【答】旧約の民は、神と神の民との関係を花婿と花嫁に喩えます(イザヤ62章5節)。娼婦とか遊女というとドキッとする強烈な表現になりますが、少しやわらかく表現すれば「浮気女」ということです。

【問】では、黙示録に登場する「大淫婦」も、その脈絡で言えば古代のエルサレムを指していますか?
【答】エルサレムは主イエスの入城の際には歓呼をもって迎え入れましたが、数日のうちに裏切り夜中に急襲して逮捕し、一日のうちに死に至らしめました。いくら「浮気女」だとしても、究極の悪行でした。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【問】旧約聖書の預言書は、おもにどこでエルサレムの「浮気女」ぶりを非難していますか?
【答】黙示録の本文で「淫婦」を表すギリシア語と同じ語が、早くも古代ギリシア語訳イザヤ1章21節で登場します。他にはエレミヤ2章と同13章27節や、エゼキエル16章(特に30節)と同23章などです。

【問】黙示録の「大淫婦」とは現代や近未来に存在している何者かの存在を指しているのでしょうか?
【答】ヨハネに対して啓示がなされた際、最初と最後に、「すぐにでも起こるはずのこと」と釘が刺されています。主イエスと同じ時代を生きたヨハネにとって、それは約二千年後のことになるのでしょうか?

【問】なぜ紀元七〇年のエルサレムと神殿の滅亡が、キリスト教にとって重大な意味を持つのですか?
【答】主イエスはマタイ5章18節で、「天地」が消え失せるまではモーセの律法の時代が続くと仰せになりましたが、詩編78編69節においては、「天地」はエルサレム神殿の比喩として用いられました。

(注)別エントリー「試論:『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章8節『婚宴』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226