ヨハネ12章48節「わたしを拒みわたしを受け入れない者に対しては〔わたし自身ではなく〕、わたしがこれまでに語った言葉それ自体が終わりの日にその者を裁く」同2章5節「母は言った、『この人(=主イエス)が語った言葉については、どんなことでも全て、あなたたちはその通りにして下さい』」。
(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。従って聖書全体ではなく厳密な意味では主イエスの仰せだけが神の御言葉である。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは有名な「種を蒔く人」のたとえで「良い土地に落ちた種は、芽を出し良い実を結んだ」(ルカ8章8節)と仰せになり、11節「種とは神の御言葉」15節「良い土地に落ちた種とは、素直で無垢な心で御言葉を聞き、忍耐強く御言葉を固く守り続け、実を結ぶに至る人たちである」と御説明された。
(注)別エントリー「試論:『字義通り』と『たとえ』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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モアブの女性ルツは亡き夫の母ナオミに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と誓い、寄留者としてイスラエルに住んだが何一つ差別を受けなかった。ルツは「あなたたちイスラエル人はそうするけれど、わたしの故郷の流儀は違います」という口答え(減らず口)を、何一つ口にしなかった。