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試論:「新たに生まれなければ」を140文字以内で

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

【追記】

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。