ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。
(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり「人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による」の意味合いである。
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、
《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、
《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。
人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。
(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。
イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。
マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。
主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。
主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。
(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。
エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。
主イエスはマタイ5章16節で「光を、人々の前に輝かせなさい。人々が立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるため」と仰せになった。神からの光が人々に伴って輝くのはどんな時かがイザヤ58章9節〜10節に記されているが、憐れみの業を行うと共に自分の中の悪意を放棄しなければならない。
(注)別エントリー「試論;『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。