試論:主イエスと人類の関係を140文字以内で

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。

(注)別エントリー「試論:『《半神半人》ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
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神が人となられた(ヨハネ1章14節)ことを、ニケア・コンスタンチノープル信条では「おとめマリアよりからだを受け」とする。神は単純に人間へ変化(変質)したのではなく神のまま「人間としての全て」を担った(引き受けた)。神は本来、神以外の別物へ直に変化(変質・劣化)することができない。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マルコ10章45節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる《神の御言葉》とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神であることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

エレミヤ14章8節はイスラエルの救い主が「宿」を求める旅人のようになると預言した。同節の古代ギリシア語訳で用いられている客間を意味する語と、ルカ2章7節で「宿屋〔がなかった〕」を表す語は同じで、同22章11節とマルコ14章14節で「〔過越の食事をする〕部屋」を表す語も同じである。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
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