試論:履物をお脱がせする???を140文字以内で

【問】洗礼者の言う「履物を脱ぐ」とは?
【答】ルツ4章7節は、古代イスラエルでは親族の責務の代行に際して履物を脱ぐ慣習があったと記し、主イエスは人々の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られました(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを「履物」で示唆しました。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

【追記】

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マルコ10章45節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。