マタイ23章:批判の流儀

【問】主は「自分を棚に上げて他人を批判するな」の類を教えられますが、御自身はマタイ23章でファリサイ派や律法学者を徹底批判されました。
【答】主イエスは人間であると同時に神でもあられ、「自分を棚に上げる」や「脛に傷を持つ」等の、やましいことが皆無の存在なので、あえてそうされました。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

【問】なぜ主イエスは、そんなことをしても敵を増やすだけなのにわざわざそんなことをされたのですか?
【答】それこそが、動機が人間的な打算とは完全に無縁である証明で、実際、主は内心で激昂していた多くの人々によって逮捕され、散々な暴力と侮辱を受けた上で、十字架につけられて屠殺されました。

【問】マタイ23章で主イエスがなさったように弟子たちも誰かを徹底批判してもよいですか?
【答】いいえ。絶対的な正義を背負っておられるのは神なる主だけで、不完全な存在である人間がそれを真似しても間違いの元になるだけなので、誰かを徹底批判して追い詰めることは決して行うべきでありません。

【問】主イエスは、自分を真似て湖上を歩こうとし結局沈みかけたペトロを「信仰の薄い者」と、お叱りになりました。信仰が厚ければ湖上を歩けるの?
【答】主が弟子に真似を望まれるのは、へりくだって隣人に仕える姿勢で、キリストの行動なら何でもかんでも真似るのが弟子という発想は、少し軽薄です。

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

【問】なぜ主イエスはペトロに、少しだけ湖の上を歩いた後に沈みそうになるという経験をさせたのですか?
【答】キリストの弟子たちの多くが一度は、イエスの真似をして得意がるという経験をしがちですが、真似をすべきなのはそれではないと実体験で戒めるためで、「皆に仕える者こそ最も偉い者」です。

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

【問】「わたしたちを誘惑に陥らせず悪からお救い下さい」の意味は?
【答】主イエスはマタイ4章で悪魔による荒れ野の誘惑をあえて受けられましたが《人となられた神の子》ならではの試練であって、無力な人間である個々の信者が安易に真似すべき事柄ではなく自分から軽々に悪へ近付いてはなりません。

【問】主イエスがペトロをサタン呼ばわりされた、その意図は何ですか?
【答】この場合の「サタン」は「邪魔をする者、行く手を阻む者」の意味で、「あなたはわたしのことを思ってそのように言うのだろうが、それではわたしは救い主としての使命を果たさないことになってしまう」が裏側にある仰せです。

【問】「救い主としての使命」って一体何ですか?
【答】「多くの人の身代金(=あがない、代価)として自分の命を献(ささ)げる」(マタイ20章28節、マルコ10章45節)ことで洗礼者は「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)、聖母は「偉大なこと」(ルカ1章49節)等と呼びます。