主イエスはマタイ5章48節で「あなたたちの天の御父が完全な方であられるように、あなたたちも完全な人になりなさい」と仰せになったが、「完全」の意味をヤコブ3章2節は「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」と呼び、「舌を制御する」(8節)ことの重要性を説く。
【追記】
マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。
マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。
(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。
主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。
(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。
(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
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