マルコ12章にある通り古代イスラエルの正しい律法理解ではまず重要な掟は神への愛、次に重要な掟は隣人愛であった。従って「家族よりもわたしの方を愛するように」とマタイ10章37節の通りに要求する資格があるのは、神なる主お一方だけである。イエスはここで御自分が神であるとほのめかされた。
主はルカ14章26節でも「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。
ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。
主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。
主はマタイ10章34節で自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣は分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この分断の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されるが、主の御言葉をエフェソ6章17節と黙示録1章16節では「剣」にたとえ、前者は「聖霊の剣」と表現する。
(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064
(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812
もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)へ導くからである。
申命記6章では子供から「主が人間に教えを授けられた理由はなんですか」と質問された時、親は「人間の生活をいつも幸せなものにするため」と答えるべきだと記す。殺されたり、盗まれたり、だまされたり、理由もないのに憎まれたり、配偶者を横取りされたりすることは、誰一人として、望みなどしない。
神が人間に望んでおられる生き方とは何かを、親は子供にも教えなければならないと、申命記6章7節では説く。子供に教える行為は親自身の学びの機会にも当然なる。神が人間に望んでおられる生き方が何かを教えぬまま礼拝に参加させると、信仰とは単なる形式に過ぎないという誤解を子供に与えてしまう。