エゼキエル36章:清い水を振りかける時

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

「内側を清くする」と聞いて、人々はエレミヤ4章14節「あなたの心から悪を洗い去りなさい。そうすれば、あなたは救われる。あなたはいつまで、心の中に邪悪な思いを抱え続けているのか」や、エゼキエル36章26節「あなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く」等を連想したはずである。

【問】当時のユダヤ人の「清め」とは何ですか?
【答】ヨハネ2章の有名な「カナの婚礼のぶどう酒の奇跡」の場面では「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」(6節)が登場します。民数記19章には「清めの水」の規定がありますが、それは「振りかける」(18節、19節、21節)ものと記しています。

【問】ヨハネ6章4節で、過越祭が迫っていた時期だったことに言及した意味は?
【答】同11章55節は、「ユダヤ人は身を清めるために過越祭の前にエルサレムに上る」習慣があったことを記します。本来は一人一人が地元に戻り「親族や知人」(ルカ2章44節)と共に旅立つべき時期が迫っていました。

パウロは一コリント10章2節で、モーセの一行は出エジプトの際にバプテスマすなわち、洗礼を受けたと記す。出エジプト14章21節「モーセは手を海に向けて延ばし、主が夜通し激しい東風で海を押し止められたので、水が分かれ、海は乾いた地になった」。強風によりモーセの一行は水しぶきを浴びた。

古代ギリシア語訳列王記下5章14節は預言者エリシャの言葉に従いヨルダン川に七度身を浸したシリア(=アラム)人ナアマンの行為を、「洗礼」と訳されるバプテスマの動詞形バプティツォで表現する。10節でエリシャは七度身を洗うように指示したが、それを受けてナアマンは14節で七度身を浸した。

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233