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試論:「選ばれる人は少ない」?を140文字以内で

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

【追記】

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『選んだのは、どっち?』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「黙示録12章の『女』は救い主の母その人」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、神に選ばれる者は少ない」ヨハネ14章23節「本当にわたしを愛している人なら、わたしの言葉を守るはずだ。御父とわたしはその人のところに行って、一緒に住む」24節「本当はわたしを愛していない者は、決してわたしの言葉を守ろうなどとしない」。

主はマタイ22章14節で「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」と仰せになったが、「選ばれる者」が「選ばれる」瞬間の主の御言葉を、25章34節は「さあ、わたしの御父に祝福された人たち、あなたたちは、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた神の王国を受け継ぎなさい」と記す。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』と『神の義』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『選ばれるかは当人次第』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8069

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360