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試論:「針の穴」何のたとえ??を140文字以内で

古代の都市は防衛や警備の必要上なるべく城壁を大規模で頑丈に造ったが、同じ理由から城壁の内外を往来する通用門は必要最小限の大きさに留めた。郊外の山上から見下ろすと、「長い城壁」と「所々に設置された城門」と「開門を待つ人々の長い行列」は、「長い針」と「針の穴」と「糸」のように見えた。

【追記】

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。神の国に入るためには「神の義」を自分のものとする必要があり、その比喩として「門」(同7章、詩編118編19節参照)や「礼服」(マタイ22章、詩編132編9節参照)と表現され、旧約の民が熟知する詩編に、言及された。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはマタイ7章14節では「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と教えられたが、ヨハネ10章9節では「わたしは門であり、わたしを通って入る者は救われる」同14章6節では「わたしは道・真理・命であり、わたしを通らなければ誰も父の許に行くことはできない」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:天の国の条件を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章で主は「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(14節)と仰せになったが、詩編118編19節以下には「正義の門よ開かれよ。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。主に従う者はこの門から入る」とある。

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

黙示録12章やヨハネ19章25節からカトリックでは聖母を神の民の母と捉える。他方ガラテヤ4章26節では、「天のエルサレム」を神の民の母と記す。従って、象徴的・神秘的な意味で聖母は、神の都市である天のエルサレムと同一視され、「天の門(古代人にとって門は都市の象徴)」とも呼称される。

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706