「枯れた骨」の復活???

【問】エゼキエル37章「枯れた骨の復活」は何を意味しますか?
【答】エゼキエルの頃までに古代イスラエルは、サマリア陥落やエルサレム陥落(バビロン捕囚)で散り散りになり「神の民」としての体を成さなくなっていたが、やがて到来するダビデの末裔の下に新しい神の民が形成されるということです。

パウロは二コリント6章16節で、エゼキエル37章27節を引用し、それは主イエス・キリストにおいて既に実現したという理解を記す。ヨハネ1章14節の「〔神の〕御言葉は肉(=人間)となられ、わたしたちの間に宿られた」も同様の理解で、ヨハネ福音書では主御自身が随所でそれを仰せになられる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?
【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ人は時に人間それ自体を「骨」と呼んだ(箴言14章30節等)。エゼキエル37章も、神の民としてのあるべき姿から道徳的に程遠い有様に成り果てた人々を「枯れた骨」と呼んだ。「わたしの住まいは彼らと共にある」は、「神の御言葉は人となりわたしたちの内に住まわれた」と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は、人間(人間それ自体。人間の一部ではなく、人間全体)を

「塵(土)」(創世記2章7節、3章19節)

「肉」(6章3節、12節)

と表現した。同様に

「骨」(2章23節)

も人間それ自体を指す。箴言16章24節「親切な言葉は骨を癒す」の「骨」とは、

「人々」

を意味している。

創世記6章にある通り、古代のヘブライ人は人間それ自体を「肉」と表現したが、同様に「骨」も人間それ自体を指す場合があった。箴言14章30節「憐れみの心はその人自身にも周囲の人々にも『命(=幸福や安堵感や充足感)』をもたらすが、嫉妬心は骨の隅々に至るまでその人間全体を腐らせていく」。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人には「家も体も自分にとっての住まい」と考え両者を同一視する観念があった。故にエゼキエル37章27節「わたしの住まいは彼らと共にある。わたしは彼らの神となり彼らはわたしの民となる」とヨハネ1章14節「神の御言葉は人となりわたしたちの間に住まわれた」は同じ事柄である。

(注)別エントリー「試論:インマヌエルを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
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《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記2章23節は「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と記す。ヘブライ人は人間を「肉」(同6章)と呼び、また「骨」(箴言14章30節、エゼキエル37章)とも呼ぶが、「骨」と呼ぶ時は「骨の髄まで」の意味合いがあり、アダムはエバの姿を見て「この者は何から何まで自分と一緒だ!」と喜んだ。

創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》でありエバの創造に「手抜かり」はないと示唆し、「女は男より劣るように創造されたからエバは蛇にだまされた」等の男尊女卑の発想を否定する。

(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

【問】ヨハネ3章3節「人は新たに生まれなければ神の国を見ることができない」の意味とは?
【答】エゼキエル18章「わたしは悪人が立ち帰り生きることを喜ぶ。あなたたちが犯した全ての背きを投げ捨て新しい心と霊を造り出せ。あなたたちは立ち帰り永遠の命を得て生きよ、と主なる神は仰せになる」。

【問】「永遠の命」と「神の国」の関係は?
【答】キリストに忠実な人々は、この世の終えた後、「天上の体」(一コリント15章40節)を与えられ「神の国」つまり《新しい天・地・エルサレム》(イザヤ65章17節以下)と呼ばれる場所において、終わることのない幸福の日々を過ごすことになります。

ルカ23章42節で善き盗賊は、主イエス・キリストに属する民がいる場所を「あなたの御国」と呼んだ。そこを主御自身は続く43節で「楽園」と呼ばれた。主イエスは御受難と御復活との間に「新しい天・地・エルサレム」と呼ばれる場所を創造され、御自身と御自分の民の「復活の体」もまた創造された。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『王』と呼ばれる意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
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