「小羊の妻である花嫁」???

【問】黙示録21章9節は、次の10節以下で紹介される「新しいエルサレム」について、「小羊の妻である花嫁」と呼びます。この意味は?
【答】17章で「大淫婦」と呼ばれて滅亡していく都が、「古いエルサレム」つまり紀元七〇年に神殿もろとも滅亡したエルサレムに他ならないことを示唆しています。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章7節の『町』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章8節『婚宴』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録17章10節は、都にとっての五人の王が既に倒れ、その当時の王は六人目だと記す。エルサレムに君臨していたヘロデ王家の五人目の王であるアグリッパ二世がユダヤを去った後、事実上の王としてギスカラのヨハネが都で暴虐の限りを尽くしていたのは紀元六八年から六九年にかけての時期であった。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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申命記22章5節は男性の女装を禁じた。この掟を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、社会秩序崩壊を防ぐ掟とみなした。主の御受難から三十数年後、独裁者(ギスカラのヨハネ)の下でエルサレムを恐怖支配していた武装勢力の集団は、白昼堂々女装しながら、市民に対し虐殺や略奪や婦女暴行等を繰り拡げた。

(注)別エントリー「『世も末』の徴を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
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主はルカ21章20節以下において、エルサレムが敵に包囲された際は都に籠城してはならず都を離れるようにと予告されていた。三十数年後ヘブライ13章13節は「宿営(陣営)」という言葉で都を示し、そこを離れるよう促した。黙示録18章4節も都を「彼女」と呼び、残っていた人々に退去を促した。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
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主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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〔注〕別エントリー「七つの山々の都エルサレム」も参照のこと。
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主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

【問】主イエスの結婚歴の記述は福音書にないですが結婚しなかった理由は?
【答】イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁の関係に喩えます。主は、御自分が神である事実を花婿という表現で暗示され、洗礼者も主を花婿と呼びます。主は神の民全体の花婿で、特定の一女性の夫ではあり得ません。

(注)別エントリー「試論:マタイ9章15節『婚礼』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
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