試論:四世紀の「イエスの兄弟」を140文字以内で

四世紀後半、「イエスの兄弟」に関して、三つの解釈が存在した。

【A】ヘルヴィディウス「それはヨセフとマリアとの間の子供たちを指す」

【B】サラミスのエピファニウス「それはヨセフの前妻の子供たちを指す」

【C】ヒエロニムス「それはイエスの親族を指す」

カトリックの伝統的解釈は【C】である。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2544

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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【追記】

四世紀後半、聖ヒエロニムスは誰よりも、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を頑強に主張した。ヘブライ語聖書の翻訳に従事していた彼は、「いったん神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、ヘブライ人にとって重大な罪悪である」と熟知していたからである。

(注)別エントリー「試論:古代イスラエルの兄弟姉妹を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

ヤコブの名を冠する外典福音書では住民登録のためにベツレヘムへ出発する際、高齢の自分と若いマリアとの二人旅は外聞が悪いとヨセフは考え、前妻との間の息子を呼び寄せて先にマリアと出発させヨセフは後を追った。神の母とは全く不釣り合いのこんな老人を神が選ばれる道理が、どこにあるのだろうか?

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】」も参照のこと。
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(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
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ヤコブを称する外典福音書は二世紀後半までに成立したが、聖母の神殿奉献や聖母の両親の名前の記述はカトリックの聖伝と一致する半面ヨセフ関連の記述全般で信憑性に乏しく、ヒエロニムスや四〜五世紀の諸教皇に排斥されて西欧では一度表舞台から姿を消したが、宗教改革期に再び西欧で広く紹介された。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842