マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の御父の御心を行う者だけが、入る」同25章45節以下「この最も小さい者の一人にしてくれなかったことは、わたしにしてくれなかったことである」「こうして、この者たちは永遠の罰を受ける」。
【追記】
マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
マタイ25章31節以下には、主イエス・キリストによる最後の審判について書かれており、その裁きの結果、正しい人たちは「永遠の命」にあずかって「天地創造の時から用意されている国」を受け継ぎ、そうでない人たちは「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」に入って「永遠の罰」を受ける。
黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。
黙示録20章には「この火の池が第二の死である」(14節)「その名が命の書にない者は火の池に投げ込まれた」(15節)などとあるが、マタイ25章には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)「永遠の罰」(46節)と書かれている。
黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。
ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。
ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。
ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。
主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。
ヘブライ3章7節から4章の最後までにおいて、神の民が安息にあずかるために必要なものが論じられる。新約時代のキリストの弟子にとって「神の安息」とは永遠の命(=天国の福楽)であり、4章11節は不従順に陥らぬようにたゆまぬ努力(=愛の実践を伴う信仰、ガラテヤ5章6節)を促し勧めている。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541
主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884