ヨブ記」カテゴリーアーカイブ

試論:「目と高慢」を140文字以内で

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

【追記】

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

主イエスはマタイ6章22節等で「体の灯は目」と仰せになったが、これは詩編19(18)編の9(8)節「主の定めは正しく心に喜びを与え、主の戒めは清く目に光を与える」箴言6章23節「戒めは灯、御教えは光」ヨハネ1章4節「神の御言葉の内に命があり、命は人間を照らす光」等と関連している。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

ルカ1章「マリアの賛歌」で、聖母は御自分を「身分の低い(タペイノス)」「はしため」と表現されたが、このギリシア語「タペイノス」は古代のギリシア語訳ヨブ記22章29節にも見られ、ヨブ記のヘブライ語本文では「目を伏せる」となるが、この所作はヘブライ人にとってへりくだりを象徴していた。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253