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試論:「戸をたたいている」を140文字以内で

ルカ12章36節以下「もし主人が夜中に帰って来て戸をたたいても戸をすぐ開けられるよう待つしもべの如く、主人を待ちなさい。そのしもべの食事を主人は給仕するであろう」黙示録3章20節「わたしは戸口で戸をたたいている。わたしの声を聞いて戸を開ける者と、わたしは食事を共にするであろう」。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

御復活の後に主イエスはヨハネ21章で、暗い時間から漁に出た弟子たちのことを、陸で魚を焼きながら朝食の準備をしてお待ちになっていた。御自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10章45節)という事柄を、主はこのような経験を通して、弟子たちの心に深く刻み付けられた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは福音書で何度も「目を覚ましていなさい」と仰せになった。これに続けるようにパウロは、一コリント16章13節で「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」と記した。ペトロも第一の手紙5章8節で、この仰せの前に「身を慎んで」と付け加え、悪魔に対する警戒を説く。

(注)別エントリー「試論:引き締めるべきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ12章37節で「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸い」と仰せになり、38節も同様である。43節では「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸い」とあるので、主の仰せを怠らず行うことが「目を覚ましている」ことだと分かる。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録16章15節は、「目を覚ましている」こととは「衣を身に着けている」ことであると示唆する。コロサイ3章10節以下によれば、着るべき「衣」とは「造り主(=主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい人」を指しており、より具体的には憐れみの心・慈愛・謙遜・柔和・寛容そして愛を指す。

(注)別エントリー「試論:『身に着けるべき衣』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章の「十人の乙女」のたとえで、6節に「夜中に『見よ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあり、当然「花婿」は主イエス・キリストに他ならないが、これは詩編119編62節「〔主よ、〕わたしは夜中に起きて、あなたの正しい裁きに感謝をささげます」を踏まえた言い回しである。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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