日別アーカイブ: 2020年3月10日

予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは

(以下の引用は、全て『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注(サンパウロ)によります。また、聖書ギリシア語は適宜ラテン文字転写して提示しますが、新約聖書に関しては原文のギリシア語、旧約聖書に関しては七十人訳のギリシア語を提示します)

◯ルカによる福音書2章51節
「それから、イエスは両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えて(hypotassomenos)お暮らしになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた」

ここで、日本語の“仕える”に相当する原文のギリシア語の動詞は、“hupotassō”である。

日本聖書協会新共同訳でも、この箇所の日本語訳は「仕えて」であるが、講談社バルバロ訳では「従って」であり、中央出版社E・ラゲ訳も「従いい給いしが」としている。

つまりフランシスコ会訳と新共同訳は「仕える」と日本語訳し、バルバロ訳とラゲ訳は「従う」と日本語訳しているわけである。

もしも聖母マリアや聖ヨセフに「仕える」あるいは「従う」こと──つまり聖母マリアや聖ヨセフよりも自分自身を下位に置いて敬意を表す(崇敬する)ことが、「偶像崇拝」または「神を無視」して結果的に「神への冒涜」につながる行為であるとするならば、ルカ福音書2章51節において主イエス・キリスト御自身が偶像崇拝や神への冒涜行為を行なっていたということになってしまうが、神なる主イエス・キリストは悪を行なうことなどお出来にならないし、また神なる主イエス・キリストが罪を犯されることなどもありえない。

◯ローマの人々への手紙9章14節
「それでは、どうでしょうか。神には不義があるのでしょうか。決してそうではありません」

◯ヨブ記34章10節、12節
「そこで、分別のある人々、わたしの言うことを聞いてください。神が悪を行われることはありません。全能者が不義を行われることは絶対にありません」
「神は決して悪を行われず、全能者が正義を曲げられることはありません」

従って、カトリック信者が聖母マリア崇敬や聖ヨセフ崇敬を行なうことが「偶像崇拝」や「神への冒涜」行為に該当することなど全くありえないばかりか、むしろ聖母マリア崇敬や聖ヨセフ崇敬は主イエス・キリストの模範に倣うものとして安心してカトリック信者に推奨できる行ないであると考えられる。

◯フィリピの人々への手紙2章5節〜8節
「キリスト・イエスが抱(いだ)いておられたのと同じ思いを抱きなさい。キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとせず、かえって自分をむなしくして、僕(しもべ)の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、へりくだって従う(hypēkoos)者となられました」

8節の「従う」に相当する原文のギリシア語の形容詞は”hupēkoos”であり、後掲するエフェソ6章1節で登場する「従う」という動詞”hupakouō”に由来している。

◯ルカによる福音書16章13節
「どんな僕(しもべ)でも、二人の主人に兼ね仕える(douleuein)ことはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に尽くし他方を軽んじるかである。あなた方は神と富に兼ね仕える(douleuein)ことはできない」

この場合には、日本語の「仕える」に相当する原文のギリシア語の動詞は、“douleuō”である。

つまり、同じく日本語で「仕える」と表現されていても、ルカ2章51節とルカ16章13節とでは、その意味合いは大いに異なることになる。

カトリック信者が聖母そして聖ヨセフを崇敬するのは、まさにルカ福音書2章51節で主イエス・キリストが取られた態度(「仕える」または「従う」)に倣っているわけである。

◯マタイによる福音書6章24節
「誰も二人の主人に仕える(douleuein)ことはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に親しみ、他方を疎んじるかである。あなた方は神と富に仕える(douleuein)ことはできない」

この箇所でも日本語の「仕える」に相当する原文のギリシア語の動詞は、“douleuō”である。

◯出エジプト記20章4節~5節
「自分のために偶像を造ってはならない。上は天にあるものを、下にあるもの、地の下の水の中にあるものをかたどったいかなるものも造ってはならない。それらを礼拝したり(proskynēseis)、それらに仕え(latreusês)てはならない。お前の神、主であるわたしは妬みの神であり、わたしを憎む者には父たちの悪を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、千代にまで変わらぬ慈(いつく)しみを与える」

出エジプト記のこの箇所では、偶像崇拝に関して日本語の「礼拝する」に相当する七十人訳聖書のギリシア語の動詞は”proskyneō”であり、また「仕える」に相当するギリシア語の動詞は”latreuō”である。

◯ルカによる福音書1章73節~74節
「主は、わたしたちの父アブラハムに誓われたとおり、わたしたちを敵の手から救い出し、心安らかに、主に仕えるように(latreuein)してくださった」

この箇所では、日本語の「仕える」に相当する原文のギリシア語の動詞は”latreuō”である。

◯ルカによる福音書2章36節~37節
「さて、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年老いていて、若いころ嫁ぎ、七年間、夫と生活をともにしたが、やもめとなり、すでに八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、昼も夜も、断食と祈りのうちに神に仕えていた(latreuousa)」

やはりこの箇所でも、日本語の「仕える」に相当する原文のギリシア語の動詞は”latreuō”である。

このギリシア語の動詞”latreuō”の名詞形”latreia”と、「偶像」を意味する”eidōlon”というギリシア語とからなる合成語が、”eidololatria”すなわち「偶像崇拝」というギリシア語である。

◯コロサイの人々への手紙3章5節
「貪欲は偶像崇拝(eidōlolatria)と同じことです」

◯エフェソの人々への手紙5章5節
「すべてみだらなことを行う者、汚らわしいことを行う者、貪欲な者は偶像崇拝者(eidōlolatrēs)であって、キリストと神が統治する国において約束されたものを相続する資格がないことを弁(わきま)えなさい」

ちなみに新共同訳では、旧約聖書のサムエル記上15章23節に「反逆は占いの罪に 高慢は偶像崇拝に等しい」という日本語で表現されている箇所がある。

◯マタイによる福音書4章8節~11節
「さらに、悪魔はイエスを非常に高い山に連れていき、世のすべての国々とその栄華を見せて、イエスに言った、『もしあなたがひれ伏して(pesōn)、わたしを礼拝する(proskynēsēs)なら、これらのものをすべてあなたに与えよう』。そこで、イエスは仰せになった、『サタンよ、退け。《あなたの神、あなたの主を礼拝し(proskynēseis)、ただ主のみに仕えよ(latreuseis)》と書き記されている』。そこで、悪魔はイエスから離れた。すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた(diēkonoun)」

10節の「ただ主のみに仕えよ」の「仕える」に相当する、原文のギリシア語の動詞は”latreuō”であり、前掲ルカ2章37節と同じである。

一方、「み使いたちが現れ、イエスに仕えた」という箇所においては、「仕える」に相当する原文のギリシア語の動詞は”diakoneō”であるが、この同じ動詞は次のような箇所でも用いられている。

◯マタイによる福音書8章14節〜15節
「それから、イエスはペトロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。そこで、イエスがその手にお触れになると、熱が引き、姑は起き上がって、イエスをもてなした(diēkonei)」

この箇所で、「もてなす」に相当する原文のギリシア語の動詞は、マタイ4章11節の「仕える」と同じく、”diakoneō”である。

◯マタイによる福音書15章4節
「神は『父と母を敬え(Tima)。父または母をののしる者は死刑に処せられる』と仰せになった」

この箇所で「敬う」に相当する原文のギリシア語の動詞は”timaō”である。

◯マタイによる福音書19章19節
「父母を敬いなさい(Tima)。また、隣人を自分のように愛しなさい」

◯マルコによる福音書7章10節
「モーセは、『お前の父と母を敬え(Tima)』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処する』と言っている」

◯マルコによる福音書10章19節
「あなたは掟を知っている。『殺すな、姦通するな。盗むな。偽証するな。欺(あざむ)き取るな。父母を敬え(Tima)』」

◯マタイによる福音書19章17節〜19節
「イエスは仰せになった、『なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか。善い方はただおひとりである。もし命に入りたいなら、掟を守りなさい』。彼が『どの掟ですか』と聞くと、イエスはお答えになった、『殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父母を敬いなさい(Tima)。また、隣人を自分のように愛しなさい』」

◯ルカによる福音書18章20節
「あなたは掟を知っている。『姦淫するな。殺すな。盗むな。偽証するな。父母を敬え(Tima)』」

旧約聖書のいわゆるモーセ五書についても、七十人訳聖書のギリシア語を調べてみる。

◯出エジプト記20章12節
「お前の父と母を敬え(Tima)」

◯レビ記19章3節
「お前たちは、各々(おのおの)その母と父を畏(おそ)れなければならない(phobeisthō)」

この箇所の「畏(おそ)れる」に相当する原文のギリシア語の動詞は”phobeō”である。

◯申命記5章16節
「お前の父と母を敬え(Tima)」

◯シラ書3章2節〜4節
「主は子供を持つことによって、父に誉れを与え、息子たちに対する母の権利を確立された。父を敬う(timōn)者は罪を償い、母を尊ぶ(doxazōn)者は宝を積む者に等しい」

この箇所で「敬う」に相当する原文のギリシア語の動詞は”timaō”であり、「尊ぶ」に相当する原文のギリシア語の動詞は”doxazō”である。

最後にエフェソ6章の次の箇所に触れておく。

◯エフェソの人々への手紙6章1節〜2節
「子供たちは、主に結ばれた者として両親に従いなさい(hypakouete)。それは正しいことです。『お前の父と母を敬え(Tima)』──これは、約束を伴う最初の掟です──」

この箇所で、「従う」に相当する原文のギリシア語の動詞は”hupakouō”であり、前掲フィリピ2章8節の「従う」に相当する形容詞”hupēkoos”の関連表現でもある。

以上の聖書ギリシア語の考察により、主イエス・キリストの両親に対するなさりように信者として倣うことは、偶像崇拝とは別次元の事柄であることが明らかになる。

ちなみに、旧約聖書には次のような記述がある。

◯出エジプト記21章17節
「父または母を呪(のろ)う者は死刑に処せられる」

◯レビ記20章9節
「誰(だれ)でも父または母を呪う者は必ず死刑に処せられる。その人は父あるいは母を呪ったのである。その血の責任はその人自身のうえにある」

◯申命記27章16節
「『父または母を軽んじる者は呪われる』。民はみな『アーメン』と言いなさい」

◯箴言20章20節
「自分の父と母を呪う者、そのともしびは真(ま)っ暗闇(くらやみ)の中で消えてしまう」

また、新約聖書ではテモテへの第二の手紙に次のように書かれている。

◯テモテへの第二の手紙3章1節〜5節
「終わりの日には、困難な時が来ます。このことを悟りなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を貪(むさぼ)り、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を忘れ、神を汚(けが)すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないものとなり、人を裏切り、無謀で、驕(おご)り高ぶり、神よりも快楽を愛し、上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが、実際は信心の力を否定するものとなるでしょう。このような人々を避けなさい」

ローマの人々への手紙にも、次のように書かれている。

◯ローマの人々への手紙1章28節~32節
「彼らは、神を深く知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。そこで彼らはしてはならないことをしています。彼らはあらゆる邪(よこしま)なことと悪と貪欲(どんよく)と悪意に満ち、妬(ねた)みと殺意と争いと欺(あざむ)きと敵意に溢(あふ)れ、陰口を言い、謗(そし)り、神を憎み、人を侮り、高ぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、弁(わきま)えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、自ら行うばかりでなく、そのようなことを行う人たちに賛同しています」

さて、主イエス・キリストの養父である聖ヨセフについては、マタイ福音書が次のように記述している。

◯マタイによる福音書1章19節
「マリアの夫ヨセフは正しい人(dikaios)で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」

聖ヨセフの人となりを端的に表わす、この「正しい人」と日本語訳される「ディカイオス(δίκαιος – dikaios)というギリシア語は、ヤコブの手紙にも次のように登場する。

◯ヤコブの手紙5章14節〜16節
「あなた方のうちに、病人がいるなら、その人は教会の長老たちを呼び、主の名によって油を塗って祈ってもらうようにしなさい。信仰による祈りは、病人を救います。主はその人を立ち上がらせ、もし、その人が罪を犯しているなら、その罪は赦(ゆる)されます。あなた方が癒(い)やされるために、互いに罪を告白し、そして祈り合いなさい。正しい人(dikaiou)の祈りには大きな力があり、効果があります」

マタイ福音書1章19節で確かに聖ヨセフが「正しい人」と表現されている以上は、ヤコブの手紙5章16節の「正しい人」に聖ヨセフを重ね合わせて考えたとしても、決してそれが誤りであるとは言えるはずなどないのである。

(注)別エントリー「黙示録12章の『女』は救い主の母その人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4130

〔追記〕

自分の婚約者である女性が、処女性を少しも傷付けられることのない超自然的な状況の下で妊娠し、さらに自分の妻として迎え入れた(マタイ1章24節)その同じ女性が、やはり少しも傷つけられることのない極めて超自然的な状況の下で神の御ひとり子を出産するのを、ヨセフはまさしく歴史の目撃者として、最初に知る立場にあった。

しかも、自分の妻は、「聖なる者、神の子」(ルカ1章35節)の母となるという、その重大事に臨んでも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)という、自身の分を弁えた、あくまでも高ぶることなく控え目で、落ち着いた態度であった。

そればかりではなく、ヨセフは妻の親戚で「年老いて」「不妊の女と言われていた」(同36節)エリザベトの妊娠出産など、さまざまの不思議な出来事の中で、日々を過ごしていた。
加えて、エリザベトの夫である祭司ザカリアの身に起こった不思議についても当然ながら、色々と聞かされていたはずである。

また、主の御降誕の直後には、「主の使い」の出現を受けた羊飼いたちが「天の大軍」による神の賛美を目撃し、「主が知らせてくださった」通りに自分たちを訪問したことも、同様にヨセフには強く印象に残ったはずである。

さらには、不思議な星に導かれた東方の博士たちが黄金や乳香や没薬(もつやく)を携えて来訪し、ひれ伏して幼子を礼拝する場面にも、当然ヨセフは立ち会っていた。

そして、イエスを奉献するためにエルサレムの神殿を訪れた際の、シメオンの賛歌と預言、そして女預言者アンナの不思議な言葉についても、それらをことごとく心に留めていた自分の妻マリアとその後いくたびも、どのような意味があったのか、ことあるごとに語り合って意見を交換し、また妻から教えられもしたはずである。

しかもマタイ福音書によればヨセフ自身も、夢の中でではあれ節目節目で、その都度「主の使い」による指示を受け(1章20節、2章11節、2章19節、2章22節)、イエスとマリアのために有益になるよう、適切な行動を取ったのである。

この時期のヨセフ自身、自分が超自然的な雰囲気の中で生きている──生かされていることを疑う余地なく実感していたであろう。

自分の妻が「神の子」の母となっても「主のはしため」という基本的スタンスであって、また自分たちと出会う多くの人々は生まれた幼子を「聖なる者、神の子」と賛美している。ヨセフは当然、自分自身もまた妻の「主のはしため」という位置付けにならい、自分を「主のしもべ」と位置付け自分の残りの生涯を生まれた幼子イエスのためにすべて捧げ尽くす、と固く決意したに違いない。

いかにヨセフが「神の子」の養父という立場になったからといっても、それでも一人の人間として「神のしもべ」であることには何ら変わりはないわけである。
現に自分の妻マリアでさえも、実際に生みの母親でありながら、「わたしは主のはしため」であるという基本的スタンスを崩してはいない。
そうである以上、まして「養父」に過ぎないヨセフ自身においても状況は同様ということになる。

そして、イエスのために生涯を捧げ尽くす、と決意したまさにその瞬間から、ヨセフには妻との間にイエスとは別に子供をもうけよう、などという考えは微塵も浮かばなかったはずである。

「主のしもべとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」という決意と、「妻との間にイエスとは別に『自分の子』をもうける」という事柄とは、どう考えても絶対に両立し得ず、決定的に相容れない矛盾ということになる。

本当に「主のしもべとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」と思っているならば、「妻との間にイエスとは別に『自分の子』をもうけて父親になる」暇などはないのである。

◯申命記6章5節
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい」

生まれた幼子イエスとその母のために全てを捧げ尽くす、という聖ヨセフの思いは、「エジプトへの逃避」に際しての行動からも明らかである。
そして何度も「主の使い」は夢の中に現れてヨセフを導き、目覚めて起きるとヨセフはその都度、直ちに行動を起こして、それに応えていた。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ福音書の1章から2章あるいはルカ福音書の1章から2章に書かれている、さまざまなエピソードを体験したマリアもヨセフも、「神の御ひとり子」が礼拝の対象となるばかりか迫害の対象ともなり得ることを身をもって痛感し、その前途の多難さに思いを馳せればまさに身の引き締まる思いの日々だったに違いない。

殊に、生まれて早々「自分の子」であるイエスが迫害の対象になったのを思い知らされた母マリアは、改めて、「主のはしためとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」という決意を新たにしたはずである。
イエスの誕生以降、母マリアにとってイエスこそ唯一の関心事と言っても過言でなかったことが、新約聖書の記述からは理解できる。

福音書には、エジプトへの逃避に際して聖家族を助けた人々の存在についての記載が全くない。
もちろん天からの目に見えぬ助力はあったものとは思われるが、基本的に聖ヨセフが事実上たった一人で、聖母子をお守りしながらヘロデ王の勢力圏を脱出して、エジプトへと至ったのである。
ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの距離よりも、エジプトへの旅はさらに数倍の距離であり、しかも自分たちで旅の日程を決められるのとは全く異なる、まさに命がけの逃避行だったのである。

ヘロデ王たちが狙っていたのは、ヨセフ自身の生命でも妻マリアの生命でもなく、ただ幼子イエスの生命のみであった。
幼子イエスの生命については、エジプトへの逃避の際には、まさに聖ヨセフが重大な責任を担ったのである。

それゆえ、ヨセフの、「生まれた幼子イエスと、その母のために、全てを捧げ尽くす」という思いは、まぎれもなく本物であった。
そしてヨセフは、妻マリアが「神の御ひとり子」の母でありながら自分自身のためには何ら特権を要求せず、ひたすら「主のはしため」としての立場をつらぬき通しているのを、その傍で見続けており、熟知していた。

マリアが「神の母」でありながら「主のはしため」であり続けている以上、ヨセフは自分もまた「神の養父」であっても何ら特権を要求できず単なる「主のしもべ」に過ぎない、と妻の態度から学んだであろう。

◯ローマの人々への手紙14章7節〜8節
「わたしたちの中で、誰(だれ)一人として自分のために生きる者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。生きるにしろ、死ぬにしろ、わたしたちは主のものなのです。」

自分の産んだ「わが子」は「神の御ひとり子」でありながら、何か月もしないうちに、無力な幼子のままでヘロデ王たちから命を狙われている──この苦境は、母マリアの幼子イエスへの「自分は主のはしためとして、この幼子のために全てを捧げ尽くす」という母としての強い思いを、さらにいっそう燃え上がらせこそすれ、少しも冷え込ませることなどあり得なかったはずである。

そんな苦境にあって、母マリアがイエス以外にも「自分の子」の存在を望むことなど、微塵もあり得なかったであろう。
重ねて強調するが、イエスの誕生以降、母マリアにとってイエスこそ唯一の関心事と言っても過言でなかったことが、新約聖書の記述からも理解できる。

母であるマリアにとって──そして養父であるヨセフにとっても──神の御ひとり子であるイエスが自分たちの傍らに存在していること──イエスを「わが家」に迎え入れていることこそ、まさに全世界を所有しているに等しい事柄だったに違いなく、二人は、それ以外の何物を所有することも望まなかったはずである。

人類史上、マリアとヨセフの二人だけを除けばそれ以外の全ての人間は、ただ神に自分たちの身を守っていただくことを考えていれば、それで良かった。
マリアとヨセフの二人だけが、神に自分たちの身を守っていただくことだけでなく、むしろ、自分たち自身こそが、積極的に日々の具体的な行動をもって、神そのものであられる「自分たちの子」イエスをお守りすることに、何年も何十年も、(マリアとヨセフの二人は)身も心も砕かなければならなかった。

従って、キリストを信じる人々にとって、この二人が別格の存在であることは、当然である。
マリアとヨセフの二人は、決して「普通の夫婦」などではなく、そして一般的に「普通の夫婦」が望むことなどは、決して望みもしなかったに違いない。

この夫婦にとっては、イエスの存在こそが全てだったはずで、基本的にそれ以外の何物にも関心はなかったであろう。

妻マリアが「主のはしためとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」と決意していた以上、自分だけが「妻との間にイエスとは別の『自分の子』をもうける」と望むことは妻マリアをつまずかせることに他ならず、御父である神がそのようなことを決して望まれているはずなどあり得ない──自分の周辺で起こった多くの不思議な出来事をを通じて、そうヨセフは理解したはずである。

◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である。」

そして自分が妻マリアとの間にイエス以外の「自分の子」をもうけようと望むことは、つまり御父である神そしてその御ひとり子に背を向けることに他ならず自分が不当な権利を行使することだとも、ヨセフは妻マリア及び、周囲の神に忠実な全ての人々──幼子イエスを礼拝した全ての人々の態度からも当然、理解したであろう。

聖母マリアの終生童貞そして聖ヨセフの終生童貞とは、この二人が「神の母」「神の養父」として何らの特権もこの世では要求することなしに「主のはしため」「主のしもべ」としての立場を徹底してつらぬき通したことの裏返しであって、同じくキリストを信じる一人の人間としての立場から考えても、特段の不自然さを感じることなくして十分に理解できる事柄なのである。

神殿とは神の住まわれる場所のことである、という基本に立ち返れば、父なる神の御ひとり子たるイエスの住まわれるナザレの聖家族の家こそが、真の意味での神殿に他ならなかったことになる。

そしてサムエル記上2章22節以降によれば、古代のイスラエルでは、「会見の幕屋」つまり神殿の中にいる女性(神殿に奉仕する女性)が男性と「ともに寝る」ことは、主なる神に対する罪悪(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)に該当すると考えられていたことが、その記述から理解できる。

(注)「会見の幕屋」は、日本聖書協会新共同訳では「臨在の幕屋」。

◯サムエル記上2章22節~25節
「さて、エリは非常に年老いていた。彼は、息子たちがイスラエルのすべての民に対して行っていたあらゆること、また、彼らが会見の幕屋の入り口で奉仕する女たちとともに寝たことを耳にして、息子たちに言った、『なぜそんなことをするのか。わたしはお前たちがしている悪いことを、みんなから聞いている。息子たちよ、やめなさい。わたしは主の民が言いふらしていることを聞くが、そのうわさは善くない。人が人に対して罪を犯した場合、神が仲裁してくださる。しかし、人が主に罪を犯すなら、誰がその人のために執りなしをするだろうか』。しかし、彼らは父の言葉に従おうとしなかった。主が彼らを死に至らしめようとしておられたからである」

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

ベツレヘムであれエジプトであれナザレであれどこであれ、洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれどこであれ、真(まこと)の神であるイエスが住まわれる建物あるいはそれに類するものは、言葉の定義からしても、本来の意味での「神の家」すなわち「神殿」そのものなのである。

◯創世記28章16節~17節
「ヤコブは眠りから覚めて言った、『まことに主がこの場所におられるのに、わたしはそれを知らなかった』。彼は恐れて、また言った、『ここは何と畏れ多い場所だろう。ここはまさしく神の家である。ここは天の門だ』。」

そして、マリアもヨセフもイエスと一つ屋根の下に住む以上、「神殿の中にいる女性(神殿に奉仕する女性)が男性と『ともに寝る』ことは罪悪に該当する」という立場からすれば、イエスのために残りの生涯を捧げると決意したマリアの終生童貞とヨセフの終生童貞とは、むしろ必然であると考えられる。

つまりこれこそが、聖母マリアの終生童貞および聖ヨセフの終生童貞の、聖書的根拠と言える。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、あってはならないこと、つまり不祥事であり宗教上の禁忌(タブー)であった。

モーセの律法で「最も重要な掟」(マタイ22章37節、マルコ12章30節、ルカ10章27節)とされた、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)という掟を、聖母マリアと聖ヨセフは「終生童貞」というかたちで全うしたのである。
マリアとヨセフは日々イエスと一つ屋根の下で生活し、しかもイエスこそまさに「あなたたちの神、主」に他ならないのであるから、やはり聖母マリアの終生童貞と聖ヨセフの終生童貞は、当然の帰結と言える。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464