主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。
(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『永遠の意味を理解する』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。
(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガリラヤのユダを140文字以内で」も参照のこと。
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