試論:「その方は聖霊で洗礼を」を140文字以内で

マルコ1章は「わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で〜」として、マタイ3章やルカ3章のように「聖霊と火で」とはせず、「火」を略した。古代のユダヤ人は「火」とは《主の御言葉》の比喩(エレミヤ5章14節)と理解したが、その比喩を知らぬ異邦人があらぬ誤解をする弊害をマルコは避けた。

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

(注)別エントリー「試論:『メシアとともに来る火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8314

【追記】

エレミヤ書では、20章9節で主の御言葉が「火」にたとえられ、5章14節や23章29節でも同様である。洗礼者ヨハネも同じ比喩で「聖霊と火による洗礼」(マタイ3章、ルカ3章)と表現し、御復活後の主イエスと数時間語り続けた二人の弟子たちは、ルカ24章32節で「心は燃えていた」と語った。

エレミヤ5章14節「わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。