新約聖書は悲しみを表す際、悲嘆の情を示す表現と、感情を抑え切れず大声で泣き叫ぶ悲痛な慟哭とを異なる語で区別する。前者は山上の説教の悲しむ人、後者は鶏が二度鳴いた後のペトロ、十字架を担われた主に従う婦人たち(ルカ23章28節)、都エルサレム入城後の主御自身(同19章41節)である。
【追記】
ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。
(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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