(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)
◯シラ書27章27節(フランシスコ会訳)
「悪事を行う者には悪事が転がり込み、しかも、それがどこから来たのか決して分からない」
日本聖書協会新共同訳では、「悪事を働けばその報いがわが身に返って来る」「それがどこから来たか彼には分からない」。
◯詩編57(56)編7節(フランシスコ会訳)
「彼らはわたしの歩む所に網を張り、首を絞める縄(なわ)を備えました。彼らはわたしの前に穴を掘ったが、自らそこに落ち込みました」
◯テモテへの第二の手紙3章13節(フランシスコ会訳)
「しかし、悪人や詐欺師は、だましたり、だまされたりして、悪から悪へと落ちていきます」
◯エレミヤ書4章18節(フランシスコ会訳)
「お前の道、お前の行いがこれらのことをお前にもたらした。これはお前が招いた災いであり、まことに苦(にが)く、おまえの心臓にまで届く」
◯シラ書27章25節~26節(フランシスコ会訳)
「天に向かって石を投げるのは、自分の上にそれを投げることである。だまし討ちをすれば自分も傷つく。穴を掘る者は、これに落ち、罠(わな)を仕掛ける者は、これに掛かる」
◯箴言22章8節(フランシスコ会訳)
「不正を播(ま)く者は災いを刈り取る。その怒りの鞭(むち)は彼自身を滅ぼす」
◯箴言26章27節(フランシスコ会訳)
「穴を掘る者は自分がその穴に落ち、石を転がす者は、自分の上に、それが転がってくる」
◯箴言28章10節(フランシスコ会訳)
「正直な人を悪い道に迷わす者は自分の掘った穴に陥(おちい)る。しかし、心の清い人は幸せを継ぐ」
◯コヘレト10章8節(フランシスコ会訳)
「穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣を崩す者は蛇に咬(か)まれる」
◯ヨブ記4章8節~9節(フランシスコ会訳)
「わたしの見たかぎり、不義を耕す者、害毒をまく者は、それを刈り取る。彼らは神の息吹によって滅び、その怒りの一吹きによって消(き)え失(う)せる」
◯箴言6章16節~19節(フランシスコ会訳)
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪(よこしま)な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」
◯箴言6章12節~15節(フランシスコ会訳)
「ならず者や無法の者は、ひねくれた言葉を言って歩き回り、目配せをし、足で合図し、指でさす。そのひねくれた心は絶えず悪を企(たくら)み、不和をまき散らす。それ故、滅びが突然、彼を襲い、たちまち打ち砕かれて、彼は救われることがない」
この箇所に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの」とある。
◯ガラテヤの人々への手紙5章14節~15節(フランシスコ会訳)
「律法全体は、『隣人を自分のように愛せよ』という一句を守ることによって果たされます。しかし、もし互いに嚙(か)み合(あ)い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気をつけなさい」
◯シラ書27章30節(フランシスコ会訳)
「怒りと憤(いきどお)りもまた憎むべきもの、罪深い者はこの両方を備えている」
◯コロサイの人々への手紙3章8節~9節(フランシスコ会訳)
「しかし、今はもう、これらすべてのこと、すなわち怒り、憤り、悪意を捨て去り、ののしりや顔を赤らめるような言葉を口にしてはなりません」
◯エフェソの人々への手紙4章31節(フランシスコ会訳)
「すべての苦々しい思い、憤り、怒り、刺々(とげとげ)しい声、ののしりを、すべての悪意と共に除き去りなさい」
◯ヤコブの手紙1章19節~21節(フランシスコ会訳)
「わたしの愛する兄弟たちよ、心に留めておきなさい。人はみな、聞くに早く、語るに遅く、怒るにも遅くなければなりません。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、あらゆる汚れや溢れ出る悪を捨てて、あなた方の心に植えつけられたみ言葉を素直に受け入れなさい。み言葉には、あなた方の魂を救う力があります」
◯ペトロの第一の手紙2章1節~2節(フランシスコ会訳)
「それ故、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、み言葉である清い乳を切に求めなさい。それによって、あなた方が成長し、救いに至るためです」
◯テサロニケの人々への第一の手紙5章15節(フランシスコ会訳)
「誰も悪に悪を返すことがないようによく注意し、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう励みなさい」
◯ローマの人々への手紙12章9節、14節、17節、21節(フランシスコ会訳)
「愛には偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、善から離れてはなりません」
「あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪(のろ)いを求めてはなりません」
「誰(だれ)に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善いことを行うよう心がけなさい」
「悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい」
◯ペトロの第一の手紙3章9節(フランシスコ会訳)
「悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはなりません。かえって、祝福をもって報いなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのです」
◯テモテへの第二の手紙3章1節~5節(フランシスコ会訳)
「終わりの日には、困難な時が来ます。このことを悟りなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を貪(むさぼ)り、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を忘れ、神を汚(けが)すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないものとなり、人を裏切り、無謀で、驕(おご)り高ぶり、神よりも快楽を愛し、上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが、実際は信心の力を否定するものとなるでしょう。このような人々を避けなさい」
◯ローマの人々への手紙1章28節~32節(フランシスコ会訳)
「彼らは、神を深く知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。そこで彼らはしてはならないことをしています。彼らはあらゆる邪なことと悪と貪欲(どんよく)と悪意に満ち、妬みと殺意と争いと欺きと敵意に溢(あふ)れ、陰口を言い、謗(そし)り、神を憎み、人を侮り、高ぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、弁(わきま)えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、自ら行うばかりでなく、そのようなことを行う人たちに賛同しています」
◯ガラテヤの人々への手紙6章7節~8節(フランシスコ会訳)
「思い違いをしてはいけません。神は人から愚弄(ぐろう)されることはないのです。人は自分の蒔いたものを刈り取ります。自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」
「肉」と「霊」とを対比させる聖パウロの論法は、同じ手紙の少し前の部分にも見られる。
ガラテヤの人々への手紙5章においては、「肉の業(わざ)」と「霊の結ぶ実」とが対比されて、説明されている。
E・ラゲ訳『聖書』(中央出版社)においては、この章の5節で、「〔聖〕霊」という表現が用いられているが、この表現からも分かる通り、この章における「霊」とは、すなわち「聖霊」を意味していると考えられる。
◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節(フランシスコ会訳)
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」
この箇所について、E・ラゲ訳では、「霊の効果」として、「(愛)」「喜び」「平安」「堪忍(かんにん)」「慈恵(じけい)」「(忍耐)」「温良(おんりょう)」「真実」「謹慎(きんしん)」「節制」「貞操(ていそう)」と列挙している。
また、日本聖書協会新共同訳『聖書』では、フランシスコ会訳と同様の表現が列挙されている。
バルバロ訳『聖書』(講談社)においては、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「仁慈(じんじ)」「善良」「誠実」「柔和」「節制」などという表現である。
ところが、「肉の業」(ガラテヤ5章19節)として列挙されている事柄を行う人に関しては、「神の国を受け継ぐことはできません」と明言されている。
◯ガラテヤの人々への手紙5章19節~21節(フランシスコ会訳)
「肉の業は明らかです。すなわち、姦淫、猥褻(わいせつ)、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間割れ、妬(ねた)み、泥酔、度外れた遊興、その他このたぐいです。前にも警告したように、改めてあなた方に警告します。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」
すなわち、もしも「姦淫」「猥褻」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間割れ」「妬み」「泥酔」「度外れた遊興」等々といった事柄に心がとらわれている人がいるならば、その人に聖霊が働いていることなどありえないと分かる。
この部分は、ラゲ訳では、「私通」「不潔」「わいせつ」「邪淫」「偶像崇拝」「魔術」「恨み」「争い」「ねたみ」「腹立ち」「けんか」「擾乱(じょうらん)」「異説」「そねみ」「人殺し」「酩酊」「とう食」などとなっており、これらの事柄に心がとらわれているならば、聖霊が働いていない証拠というわけである(「とう食」は「貪食」などと同じ意味)。
新共同訳では、「姦淫」「わいせつ」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間争い」「ねたみ」「泥酔」「酒宴」などとなっている。
バルバロ訳では、「淫行」「不潔」「猥褻」「偶像崇拝」「魔術」「憎悪」「紛争」「嫉妬」「憤怒(ふんぬ)」「徒党」「分離」「異端」「羨望」「泥酔」「遊蕩」などが挙げられている。
◯シラ書7章1節~3節(フランシスコ会訳)
「悪事を働くな。そうすれば、悪がお前に襲いかかることはない。不義から遠ざかれ。そうすれば、不義はお前からそれて去る。不義の畝間(うねま)に種を蒔(ま)くな。そうすれば、七倍の収穫を刈り取ることはあるまい」
3節の「七倍の収穫」の「七倍」とは、「不義」や「悪事」を働いたことに対する「報い」や「罰」の大きさに関する旧約聖書の慣用的な表現であり、早くも創世記4章15節には「主はカインに仰せになった、『ならば、カインを殺す者には誰でも、七倍の復讐(ふくしゅう)を受けるであろう』」、また24節には「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」といった記述がある。
さて、レビ記26章には、主なる神がお与えになった掟に旧約の民が従わなかった場合に起こるであろう災いの数々に関して、「七倍」という表現を繰り返し用いて非常に厳しい警告が与えられている。
◯レビ記26章18節(フランシスコ会訳)
「それでもなお、お前たちがわたしに聞き従わないなら、わたしはお前たちの罪の故に、七倍重くお前たちを懲(こ)らしめるであろう」
◯レビ記26章21節(フランシスコ会訳)
「もしお前たちがなおもわたしに逆らって歩み、わたしに聞き従わおうとしないなら、お前たちの罪に応じて、さらに七倍の打撃をお前たちに加えるであろう」
◯レビ記26章23節~24節(フランシスコ会訳)
「それでもなお、お前たちがわたしの戒(いまし)めを受け入れず、さらにわたしに逆らって歩むなら、わたしもまたお前たちに逆らって歩み、お前たちの罪の故に七倍の打撃を加えるであろう」
◯レビ記26章27節~28節(フランシスコ会訳)
「それでもなお、お前たちがわたしに聞き従わず、わたしに逆らって歩むなら、わたしは怒りをもってお前たちに逆らって歩み、お前たちの罪の故にわたし自身お前たちを七倍重く懲らしめるであろう」
一方、主イエス・キリストは、次に示すマタイ福音書のあまりにも有名な箇所で、「あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升(ます)で、あなた方にも量り与えられる」と仰せになっている。
◯マタイによる福音書7章1節~2節(フランシスコ会訳)
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられる」
◯ルカによる福音書6章37節~38節(フランシスコ会訳)
「裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなた方も罪に定められない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺さぶり、溢(あふ)れるほど升(ます)の量りをよくして、あなた方のふところに入れてもらえる。あなた方が量るその升で、あなた方も量り返されるからである」
◯マタイによる福音書18章21節~22節(フランシスコ会訳)
「その時、ペトロが近寄って、イエスに尋ねた、『主よ、わたしの兄弟がわたしに罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか』。イエスはお答えになった、『あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までである』」
◯ルカによる福音書17章3節~4節(フランシスコ会訳)
「気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めるなら、彼を赦しなさい。また。もし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたのもとに戻ってきて、そのつど、『悔い改めます』と言うなら、彼を赦しなさい』」
◯シラ書28章1節~2節(フランシスコ会訳)
「復讐する人は主から復讐を受ける羽目になる。主はその罪をいつまでも記憶に留(とど)めておかれる。隣人の不正を赦せ。そうすれば、お前が祈るとき、お前の罪は赦される」
◯マタイによる福音書5章21節~24節(フランシスコ会訳)
「あなた方も聞いている通り、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける。また兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に落とされる」
「祭壇に供え物をささげる時、兄弟があなたに恨みを抱いているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、行って、まず兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、供え物をささげなさい」
◯シラ書28章3節~5節(フランシスコ会訳)
「人が人に対して怒りを抱いていながら、どうして癒(い)やされることを、主に求めることができようか。自分と同じ人間に、憐れみを示さないで、どうして、自分の罪のために祈ることができようか。人は肉に過ぎないものでありながら、なおも怒りを抱くなら、誰が、その罪を赦すことができようか」
◯出エジプト記34章5節~7節(フランシスコ会訳)
「主は雲の中にあって降(くだ)り、彼とともにそこに立ち、主という名を宣言された。主はモーセの前を通り過ぎて宣言された、『主、主とは、憐れみ深く、恵みに富み、怒ること遅く、慈(いつく)しみとまことに溢(あふ)れる神である。千代に慈しみを及ぼし、悪と背(そむ)きと罪を赦す。しかし、罰すべき者は罰せずにはおかない。父の悪を子に報い、孫に報いて三代、四代に及ぼす』」
◯詩編130(129)編3節~4節(フランシスコ会訳)
「主よ、もしあなたが悪に目を留められるなら、主よ、誰が立っていられましょう。しかし、あなたのもとには赦しがあります。それ故、人々はあなたを敬います」
新共同訳では、「あなたが罪をすべて心に留められるなら」「誰が耐ええましょう」(3節)「赦しはあなたのもとにあり人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)。
◯ヨハネによる福音書8章3節~11節(フランシスコ会訳)
「律法学者とファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った、『先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石を投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどう考えますか』。こう言ったのは、イエスを試みて、訴え出る口実を得るためであった。イエスは身をかがめて、地面に指で何かを書き始められた。しかし、彼らが執拗(しつよう)に問い続けるので、イエスは身を起こして仰せになった、『あなた方のうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい』。そして、再び身をかがめて、地面に何かを書いておられた。これを聞くと人々は年長者から始まって、一人、また一人と去っていった。そして、イエス一人が、真ん中にいた女とともに残られた。イエスは身を起こして仰せになった、『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか』。彼女は、『主よ、誰も』と答えた。イエスは仰せになった、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない』」
◯箴言28章13節(フランシスコ会訳)
「自分の過ちを隠す者が栄えることはない。それを言い表して、それと手を切る人は憐れみを受ける」
この節の後半部分は、新共同訳では「告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」。
◯ヨハネによる福音書5章14節(フランシスコ会訳)
「その後、イエスは神殿の境内でその人を見つけて仰せになった、『さあ、あなたはよくなった。何かもっと悪いことがあなたに起こらないように、もう罪を犯してはいけない』」