ナザレ人、若枝、番人

マタイによる福音書2章23節の、

「預言者たちを通して、『彼はナザレ人と呼ばれる』と言われたことが成就するためである」

という箇所に関しては、「旧約聖書にはキリストがナザレ人と呼ばれるだろうという預言はない」(バルバロ訳聖書の注)とか「出典不明の旧約引用」(『福音宣教』2013年1月号44ページ、和田幹男師の連載から)などと注釈されることがあります。

マタイ福音書のギリシア語原文では、「ナザレ人」をNazoraiosというギリシア語で表現していますが、確かに七十人訳ギリシア語旧約聖書では、この言葉を見つけることはできません。そればかりか、Nazaret・Nazareth・Nazara・Nazarenosなど、「ナザレ」「ナザレト」に言及した表現は、旧約聖書の七十人訳には、全く見つけることはできません。

というより、ヘブライ語原文で調べても、旧約聖書中に「彼はナザレ人と呼ばれる」という預言に該当する箇所を見出すことができないばかりか、「ナザレ」「ナザレト」という地名そのものへの言及自体さえも、旧約聖書中には全く見つけることができません。

そこで、「『彼はナザレ人と呼ばれる』と言われた」という旧約聖書の預言を発見するために、別のアプローチを試みてみます。

さて、主イエス・キリストの時代、聖書のヘブライ語は子音文字のみで表記されていました。

<子音文字のみの表記>という観点から検討してみると、マタイ福音書2章23節の「ナザレ人(ヘブライ語でnotzri)」という単語と、イザヤ書11章1節の「若枝(ヘブライ語でnetzer)」という単語とは、「ヌン(נ – n)」「ツァディー(צ – tz)」「レーシュ(ר – r)」という三つの子音文字で、いずれも表記されます。

ところで旧約の預言者たちは、「若枝(若木)」という言葉でメシアを表現していたことが何度かありました。

「エッサイの切り株から、一つの芽が萌え出で、その根から、一つの若枝(netzer)が出て実を結ぶ。その上に、主の霊が留まる。知恵と悟りの霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は、主を畏れ敬うことを喜び、目に見えるところによって裁かず、耳にするところによって判決を下さず、正義をもって、弱い人のために裁きを行い、公正をもって、地上の貧しい人のために判決を下す。」
(イザヤ書11章1節~4節)

「その日が来れば、エッサイの根は諸民族の旗として立てられ、諸国は彼を求め、彼の住まうところは栄光に輝く」
(イザヤ書11章10節)

他の預言者も、同じ意味ながら別のヘブライ語の単語ではありますが、「若枝」について言及しています。

「その時、わたしはダビデのために 正しい若枝(tzemach)を起こす。彼は王として賢明に治め、この地に正義と公正を実現する」
(エレミヤ書23章5節)

「その日、その時、わたしはダビデの家から正義の若木(tzemach)を芽生えさせる。彼は公正と正義をこの地で行う」
(エレミヤ書33章15節)

「わたしは、わたしの僕である若枝(tzemach)をもたらす」
(ゼカリヤ書3章8節)

「見よ、その名を若枝(tzemach)という一人の人がいる。彼のもとからそれは萌え出で、主の神殿を建てる」
(ゼカリヤ書6章12節)

イザヤはnetzerというヘブライ語で「若枝」を表現していた一方、エレミヤやゼカリヤはtzemachというヘブライ語で「若枝(若木)」を表現しています。
とはいえ、いずれの預言も同じく、将来への希望となるイスラエルの指導者について表現している点では変わりありません。

ところで、「若枝(netzer – נצר)」以外にも、「ヌン(נ – n)」「ツァディー(צ – tz)」「レーシュ(ר – r)」という三つのヘブライ文字で表現できる単語には、「番人(natzar – נצר)」があります(イザヤ書27章3節)。
このnatzarというヘブライ語は、「見張る」とも日本語訳される部分でも用いられています。

「美しいぶどう園について歌え。わたし、主はその番人(natzar)、常にこれに水をまき、害が及ばないよう、夜も昼もこれを見張る(natzar)」
(イザヤ書27章2節~3節)

このイザヤ書27章2節~3節の意味を理解しやすくするために、イザヤ書7章14節を引用したマタイ福音書1章23節、そして総まとめともいうべきマタイ福音書28章20節を補足的に引用します。

「『見よ、おとめが身籠って男の子を産む、その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神はわたしたちと共におられる』という意味である」
(マタイによる福音書1章23節)

「わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代(よ)の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」
(マタイによる福音書28章20節)

つまり、「インマヌエル(神はわたしたちと共におられる)」という呼称そのものが、イザヤ書27章2節〜3節の記述する内容(「美しいぶどう園について歌え。わたし、主はその番人、常にこれに水をまき、害が及ばないよう、夜も昼もこれを見張る」」)及びマタイ福音書28章20節(「わたしは代(よ)の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」)と、直接的に関連しているわけです。

さて、イザヤはnatzarというヘブライ語で「番人、見張る」を表現していた一方、エゼキエルはtzaphahというヘブライ語で「見張り」を表現しています。

「人の子よ、あなたをイスラエルの家の見張り(tzaphah)とする。わたしの口から出る言葉を聞いたなら、わたしに代わって彼らに警告しなさい」
(エゼキエル書3章17節)

「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、告げなさい。わたしが、ある国に剣を差し向けるとする。すると、その国は人を選んで見張り(tzaphah)を立てる」
(エゼキエル書33章2節)

「押し寄せてくる剣に気づきながら、見張り(tzaphah)が角笛を吹き鳴らすのを怠ったとする。そのため民は警戒を呼びかけられないまま、やがて押し寄せてくる剣に民の命が奪われるとする。彼らが自らの手落ちで死んだとしても、わたしはその血の責任を見張り(tzaphah)自身に求める」
(エゼキエル書33章6節)

「さて人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り(tzaphah)にする」
(エゼキエル書33章7節)

イザヤもエゼキエルも、同じ意味ながら別のヘブライ語の単語ではありますが、「番人、見張り(見張る)」ということが神の民の牧者として重要な任務であることを強調しているという点では、変わりありません。

ちなみに、イザヤ書で「番人」と日本語訳されているnatzarというヘブライ語はヨブ記にも登場しますが、ヨブはその同じヘブライ語で(日本語訳では「監視される方」)神に呼び掛けています。

「人を監視される方(natzar)よ、わたしが罪を犯したとしても、あなたに対して何ができるというのでしょう」
(ヨブ記7章20節)

まとめると、以上のように、「ナザレ人」「若枝」「番人」は、いずれも<n-tz-r>(נצר)で表現することができるヘブライ語だったのです。

つまり、マタイ福音書2章23節の、

「預言者たちを通して、『彼はナザレ人<n-tz-r>(נצר)と呼ばれる』と言われたことが成就するためである」

という箇所は、ヘブライ語式に、

「ナザレ人(notzri)」

→「若枝(netzer → tzemach)」

あるいは、

「ナザレ人(notzri)」

→「番人(natzar → tzaphah)」

と連想して考えなければ、説明がつかないし理解もできない、ということです。

二世紀前半のヒエラポリスの司教パピアスは、「マタイはヘブライ語で主の福音を書いた」と証言していますが、マタイ福音書がまず最初にヘブライ語で書かれたというこの歴史的証言は、再評価されて然るべきではないでしょうか。
マタイ福音書が、まず最初に<子音文字のみの表記>のヘブライ語で書かれ、その後ギリシア語に翻訳された、と考えない限り、マタイ福音書2章23節の記述は意味が通らないのです。

「預言者たちを通して、『彼はナザレ人と呼ばれる』と言われた」というマタイ2章23節の記述に関して、ギリシア語の次元で考える限り答えが見つからない一方、ヘブライ語の次元で考えれば答えが見つかるとするなら、それは、<マタイ福音書がまず最初にヘブライ語で書かれた>傍証ともなり得るでしょう。

ところで、最後になりますが、この「ナザレ人」を、例えば民数記6章2節に登場する「ナジル人(nazyr)」と結びつけて解釈する向きも確かに存在することはしますが、いかんせんヘブライ語の次元で考えた場合に、子音文字のみでも次に示す通り表記が異なるため、その線での可能性は考えにくいものと思われます。

「ナザレ人<n-tz-r>(נצר)」

「ナジル人<n-z-y-r>(נזיר)」

〔追記〕

ナザレという地名自体が、「見張り」に由来するという説がありますが、上掲したイザヤ書27章2節から3節のヘブライ語表現(natzar)からも、その蓋然性は高いと考えられます。
もしもそうだとするなら理由は、その土地が「見張り」と呼ばれた理由は、その町が独特な地形の上に建てられていることによるものと、容易に推測できます。

「これを聞いた会堂内の人々はみな憤(いきどお)り、立ち上がって、イエスを町の外に追い出した。そして、町の建っている山の崖(がけ)まで連れていくと、イエスを突き落とそうとした」
(ルカによる福音書4章28節〜29節)

つまり、山の上に建てられた町で、崖(がけ)になっている場所もあることから、はるか遠方から侵略して来る外敵を早期に発見して対処を判断するためには極めて都合の良い場所であり、それが見張り(natzar)すなわちナザレという地名の由来になった蓋然性が高いということです。

(以上の聖書の日本語訳は、特に説明がない場合は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によりました。またギリシア語やヘブライ語は、適宜ラテン文字転写して表記しました)