(以下、聖書の日本語訳は、特に注釈が加えられた場合を除き、基本的にフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)
カトリックに関係している聖書において、「国」と日本語訳されている箇所で対応する原文の聖書ギリシア語が「バシレイア(βασιλεία – basileia)」であるならば、それは「王国」を意味する。
まず、ヨハネ福音書18章36節における主イエス・キリストの御言葉に注目したい。
◯ヨハネによる福音書18章36節(フランシスコ会訳)
「イエスはお答えになった、『わたしの国は、この世には属していない。わたしの国がこの世に属していたなら、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、わたしの部下が戦ったことであろう。しかし、実際、わたしの国は、この世に属していない』。」
この節の「わたしの国」の「国」は、ギリシア語本文では「バシレイア(βασιλεία – basileia)」であり、すなわち「(わたしの)王国」のことである。
◯ヨハネによる福音書18章36節より(新共同訳(日本聖書協会))
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人たちに引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。実際、わたしの国はこの世には属していない。」
◯ヨハネによる福音書18章36節~37節(バルバロ訳(講談社))
「イエズスは答えられた、『私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国はこの世からのものでない』。ピラトが、『するとあなたは王か』と聞いたので、イエズスは、『あなたの言うとおり私は王である。私は真理を説明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』と答えられた。」
バルバロ訳聖書は次のような注釈が存在する。「36 イエズスは地上の王ではない。その権威はこの世にも及ぶものであるとしても、この世から受けたものではない。またその王国は地上のあらゆる国をも超越する。」「37 イエズスの王国は、真理を愛する善意の人々のものである。その国の範囲は、人間の国境で区切られるものではない。キリストの声を聞くためには、真理を愛さねばならぬと、ヨハネは繰り返し説いている(3・21、8・44ー45、ヨハネ一1・8、3・19)。」
◯ヨハネ聖福音書第十八章36節(E・ラゲ訳(中央出版社))
「イエズス答え給いけるは、わが国はこの世のものにあらず、もしわが国この世のものならば、われをユデア人に渡されじとて、わが臣僕(しんぼく)必ず戦うならん、されど今わが国はここのものならず、と。」
次に、ルカ福音書17章に目を転じる。
◯ルカによる福音書17章20節~21節(フランシスコ会訳)
「さて、ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて仰せになった、『神の国は目に見える形で来るのではない。また、《見なさい、ここに》とか、《あそこに》とか言えるものでもない。神の国は、実にあなた方の間にあるのだから』。」
フランシスコ会訳の欄外の注には次のような記述がある。「『神の国は、実にあなた方の間にある』について、教父たちの多くは『あなた方の心の中にある』と解釈しているが、神の国はイエスと弟子たちの働きによって、すでに『あなた方の間』に現実に存在すると解釈するほうが適している(11・20参照)。」
なお、この節でも「神の国」の「国」は、ギリシア語本文では「バシレイア(βασιλεία – basileia)」であり、すなわち「(神の)王国」のことである。
◯ルカによる福音書17章20節~21節(バルバロ訳)
「神の国はいつ来るのかと、ファリサイ人から問いかけられたイエズスは、『神の国は目に立つように来るものではなく、ここにある、あそこにある、と言えるものではない。神の国は実にあなたたちの中にある』と答えられた。」
バルバロ訳には次の注が存在する。「21 神の国は、ファリサイ人が期待していたような政治的地上の国ではなく、イエズスに立てられて世の終わりまで滅びぬ教会である。」
フランシスコ会訳の欄外の注に従い、同じルカ福音書11章20節も参照してみる。
◯ルカによる福音書11章20節(フランシスコ会訳)
「もし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。」
なお、この節でも「神の国」の「国」は、ギリシア語本文では「バシレイア(βασιλεία – basileia)」であり、すなわち「(神の)王国」のことである。
フランシスコ会訳の欄外の注には「神の指」に関して次の記述がある。「この表現は、『神の腕』『神の手』と同様、神の力を表す(出8・15、詩8・4参照。なお、マタ12・28には『神の霊によって』とある。」
最後に、やはりフランシスコ会訳の欄外の注に従い、マタイ福音書12章28節も参照してみる。
◯マタイによる福音書12章28節(フランシスコ会訳)
「もし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなた方のもとに来ている。」
この節でも、「神の国」の「国」は、ギリシア語本文では「バシレイア(βασιλεία – basileia)」であり、すなわち「(神の)王国」のことである。
なお、この「王国」を意味する「バシレイア(βασιλεία – basileia)」という単語は、「王となる」というギリシア語の動詞「バシレウオ(βασιλεύω – basileuō)」の(いうまでもなく)関連表現であるが、ローマ5章においては、この「バシレウオ(βασιλεύω – basileuō)」がキリストに従う者にとっては特別な意味合いを持つことが説明されている。
つまり、キリストに忠実であり続けた人々が永遠の生命に入ることを、この「バシレウオ」という動詞を用いて、表現しているわけである。
そして、なぜキリストの教えに徹底して忠実であり続けた人々について、「王となる」という大胆な(そして一見すると大仰な)表現があえて用いられたのかといえば、それはこの人々が「悪に対しても悪では返さなかった」という事柄を、天の御父やキリストと同等あるいは限りなく近づいたと言えるほどまでに徹底してつらぬき通したからであって、この人々が「汝らの天父(てんぷ)の完全にましますがごとく汝らもまた完全なれ」(ラゲ訳マテオ福音書5章48節)という主の教えを体現することができたからと言える。
(注)別エントリー「試論:無千年王国説を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4675
つまり、この「バシレウオ」という動詞がキリストに忠実であり続けた人々に関連して用いられる場合には、それはあくまでも<義化の完成>を象徴する表現であって、そこには政治体制的な意味合いは含まれてはいないと解釈すべきである。
◯マタイによる福音書5章43節〜45節、48節(フランシスコ会訳)
「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、あなた方に言っておく。あなたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである」
「だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」
◯ルカによる福音書6章34節〜35節(フランシスコ会訳)
「返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人(つみびと)でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は、いと高き者の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである」
◯ルカによる福音書6章27節〜30節(フランシスコ会訳)
「しかし、わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬(ほお)を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には誰(だれ)にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない」
◯マタイによる福音書5章38節〜42節(フランシスコ会訳)
「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬(ほお)を打つ者には、ほかの頬も向けなさい。また、あなたを訴えて下着を取り上げようとする者には、上着をも取らせなさい。無理にも一ミリオンを歩かせようとする者とは、一緒に二ミリオン歩きなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない」
◯マタイによる福音書5章21節~24節(フランシスコ会訳)
「あなた方も聞いている通り、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける。また兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に落とされる」
「祭壇に供え物をささげる時、兄弟があなたに恨みを抱いているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、行って、まず兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、供え物をささげなさい」
◯ルカによる福音書6章36節(フランシスコ会訳)
「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」
つまり、「悪に対して悪では返さなかった」という点において、「悪」に打ち勝つと同時に「罪」からも自由になった人々のことを、聖パウロ(ローマ5章)と聖ヨハネ(黙示録20章)はともに「キリストとともに王となる」という最大級の賛辞を用いて表現しているわけで、それは、黙示録3章21節の主イエス・キリスト御自身の御言葉とも符合している。
(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297
◯黙示録第三章21節(ラゲ訳)
「勝利を得る人をして、わが玉座にわれとともに座するを得しめんこと、なおわが勝利を得て、わが父とともにその玉座に坐せるがごとくなるべし」
◯ヨハネの黙示録3章21節(フランシスコ会訳)
「勝利を得る人を、わたしとともにわたしの王座につかせよう。それは、わたしが勝利を得て、父とともに父の玉座についたのと同じである」
ルカ22章29節の「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなた方に王権を委ねる」という箇所は当然、黙示録3章21節「勝利を得る人を、わたしとともにわたしの王座につかせよう。それは、わたしが勝利を得て、父とともに父の玉座についたのと同じである」と同じ事柄を表わしており、神と人との間の仲介者としての主イエス・キリスト(テモテへの第一の手紙2章5節)の役割を端的に表現している。
ヨハネ福音書16章33節「わたしはすでに世に打ち勝ったのである」という主イエス・キリストの御言葉も、「悪に対して悪では返さなかった」という事柄を意味している。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277
〔結論〕
福音書における主イエス・キリスト御自身のいくつかの御言葉を考慮すれば、
「主イエス・キリストの到来に伴って、それと同時に『神の王国(バシレイア)』も約二千年前に既に到来している」
と結論せざるを得ない。
この結論は、主イエス・キリスト御自身の福音書における御言葉に基づいているため、主イエス・キリスト御自身の御言葉を無視するのでない限り、以上の結論は揺らぐことがない。
(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753