試論:「礼服」とは「新しい人」を140文字以内で

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

【追記】

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685