試論:「真理は罪から解放する」を140文字以内で

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『父と一体』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。