試論:「目を覚ます」を140文字以内で

黙示録16章15節は、「目を覚ましている」こととは「衣を身に着けている」ことであると示唆する。コロサイ3章10節以下によれば、着るべき「衣」とは「造り主(=主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい人」を指しており、より具体的には憐れみの心・慈愛・謙遜・柔和・寛容そして愛を指す。

(注)別エントリー「試論:『目を覚ましていなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『身に着けるべき衣』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ25章の「十人の乙女」のたとえで、6節に「夜中に『見よ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあり、当然「花婿」は主イエス・キリストに他ならないが、これは詩編119編62節「〔主よ、〕わたしは夜中に起きて、あなたの正しい裁きに感謝をささげます」を踏まえた言い回しである。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは福音書で何度も「目を覚ましていなさい」と仰せになった。これに続けるようにパウロは、一コリント16章13節で「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」と記した。ペトロも第一の手紙5章8節で、この仰せの前に「身を慎んで」と付け加え、悪魔に対する警戒を説く。

(注)別エントリー「試論:引き締めるべきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ12章37節で「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸い」と仰せになり、38節も同様である。43節では「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸い」とあるので、主の仰せを怠らず行うことが「目を覚ましている」ことだと分かる。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ25章で「十人の乙女」のたとえを話されたが、7章にある通り「賢い」は主の御言葉を聞いて行うことを指し、「愚かな」は御言葉を聞くだけで行わないことを指す。詩編45編8(7)節は「神に従うことを愛して、逆らうことを憎むあなたは、油を注がれた。神の喜びの油を」と歌った。