(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)
ルカ福音書2章は、天使たちが羊飼いたちに「救い主(すくいぬし)」の誕生を告げ知らせたことを、記している。
◯ルカによる福音書2章4節~7節(フランシスコ会訳)
「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフも、すでに身籠(みごも)っていたいいなずけのマリアを伴って、登録のために、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。ところが、二人がそこにいる間に、出産の日が満ちて、マリアは男の初子(ういご)を産んだ。そして、その子を産着にくるみ、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。宿屋には、彼らのための部屋がなかったからである」
◯ルカによる福音書2章8節~14節(フランシスコ会訳)
「さて、その地方では、羊飼いたちが野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の使いが羊飼いたちのそばに立ち、主の栄光が彼らの周りを照らし出したので、彼らはひどく恐れた。み使いは言った、『恐れることはない。わたしは、民全体に及ぶ、大きな喜びの訪れを、あなた方に告げる。今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉桶(おけ)に寝ている乳飲み子を見出(みいだ)すであろう。これが徴(しるし)である』。すると突然、み使いに天の大軍が加わり、神を賛美した。『いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和』」
フランシスコ会訳の「メシア」(11節)という表現に該当している原文のギリシア語表現は、「クリストス(Χριστός – christos)」すなわちキリストである。
この箇所については、日本聖書協会新共同訳もフランシスコ会訳と同様に「メシア」という表現であり、一方で講談社バルバロ訳や中央出版社ラゲ訳では「キリスト」である。
さて、マタイ福音書1章では、聖霊によるマリアの妊娠に関連して、マリアの産む男の子は「自分の民を罪から救う」ということを、次のように記述している。
◯マタイによる福音書1章18節~21節(フランシスコ会訳)
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』」
「救い主」である主イエス・キリストは、「罪」から人々を救われるということになる。
ルカ福音書1章77節には、「罪の赦(ゆる)しによる救い」という表現がある。
そしてルカ福音書1章の「受胎告知」の場面には、マリアと天使との次のようなやり取りがある。
◯ルカによる福音書1章34節~35節(フランシスコ会訳)
「マリアはみ使いに言った、『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』。み使いは答えた、『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」
また、マリアがエリサベトを訪問した場面では、エリサベトの次のような発言が記されている。
◯ルカによる福音書1章41節~43節(フランシスコ会訳)
「エリサベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内(たいない)の子が躍り、エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに叫んで言った、『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています。わたしの主の御母(おんはは)が、わたしのもとへおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう』」
この場面において、エリサベトは既にマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んでいるが、「わたしの主」とは当然この場合、「神」と同義語である。
まさにカトリック教会がマリアを「神の母」と呼ぶ聖書的根拠が、これである。
エリサベトが自分勝手にこの言葉を口にしたのではなく、「聖霊に満たされて…言った」(ルカ1章41節~42節)ものであり、むしろ神がエリサベトに語らせたと見なしても差し支えない表現であって、この「神の母」という称号は、まさに神からのお墨付きを得た(神への信仰に合致している)適切な言い回しであると判断できる。
ところで、ガラテヤ書5章においては、「肉の業(わざ)」と「霊の結ぶ実」とが対比されて説明されている。
ラゲ訳においては、この章の5節で「〔聖〕霊」という表現が用いられているが、この表現からも分かる通り、この章における「霊」とはすなわち「聖霊」を意味していると考えられる。
◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節(フランシスコ会訳)
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」
受胎告知の際のみ使いの言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1章35節)がその通りであるとしたら、当然マリアは胎内に「聖なる者、神の子」(同節)に宿しているのと同時に、マリアの内面には、「霊(聖霊)の結ぶ実」すなわち「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が宿っていたことになる。
以上のような検討により、ベツレヘムに向かうマリアの内面に存在した心情について、ガラテヤ書5章の記述から推察することが可能であると考えられる。
このガラテヤ書5章の引用箇所に関連して、フィリピ書4章には次のように書かれている。
◯フィリピの人々への手紙4章4節~7節(フランシスコ会訳)
「主に結ばれた者として、いつも喜んでいなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなた方の寛容さをすべての人に知らせなさい。主はもうすぐ来られます。何事も心配せず、すべてにおいて感謝を込めて祈り、かつ、願い、あなた方が望んでいることを神に向かって打ち明けなさい。そうすれば、人間の理解を遥(はる)かに超える神の平和が、キリスト・イエスに結ばれているあなた方の心と思いを守ってくださいます」
フランシスコ会訳の「主はもうすぐ来られます」(5節)という箇所は、新共同訳では「主はすぐ近くにおられます」、バルバロ訳では「主は近い」、ラゲ訳では「主は近くましますなり」などという表現になっている。この箇所は、主の来臨までの時間というよりは、神と人間との心理的距離について、言及している。というのも、続く8節以下に次のように語られているからである。
◯フィリピの人々への手紙4章8節~9節(フランシスコ会訳)
「それでは、兄弟のみなさん、真実であること、尊ぶべきこと、神の前に正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の善いこと、また、何らかの徳や賞賛に値することは、すべて心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の源である神があなた方とともにいてくださいます」
テサロニケの人々への第一の手紙5章にも、「喜び」について書かれている。
◯テサロニケの人々への第一の手紙5章16節(フランシスコ会訳)
「いつも喜びを忘れずにいなさい」
その前の15節には、「悪」に対する態度について、次のように語られている。
◯テサロニケの人々への第一の手紙5章15節(フランシスコ会訳)
「誰も悪に悪を返すことがないようによく注意し、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう励みなさい」
続く箇所では、以下のような事柄についても書かれている。
◯テサロニケの人々への第一の手紙5章17節~18節、22節(フランシスコ会訳)
「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることなのです」
「悪いことならどんなことであっても、それに近づいてはなりません」