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イエス・キリストと天の雲

(以下の全ての聖書からの引用は、『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によります)

◯マタイによる福音書26章64節~66節
「イエスは大祭司に仰せになった、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。今から後、あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るだろう』。すると、大祭司は衣を引き裂いて言った、『この男は冒瀆(ぼうとく)の言葉を吐いた。どうしてこれ以上、証人の必要があろうか。あなた方は今、冒瀆の言葉を聞いた。これをどう思うか』、すると彼らは、『死に値する』と答えた」

【注1】64節の「天の雲に乗って来る」という日本語は、ギリシア語原文に忠実に日本語訳するならば、「天の雲の上にあって(ἐπὶ – epi)来る」などとすべきである。以下に提示する【注2】あるいは【注3】も参照のこと。厳密に言えば、この箇所の原文(ギリシア語本文)には「乗る」という日本語に該当するギリシア語の動詞が存在しない。

◯ダニエル書7章13節~14節
「見よ、人の子のようなものが天の雲に乗り、『日の老いたる者』のもとに来て、そのみ前に導かれた。権威と威光と王権が彼に与えられ、諸国、諸族、諸言語の民がみな彼に仕えた。その支配は過ぎ去ることのないとこしえの支配。その統治は滅びることはない」

【注2】マタイ26章の「人の子」とは、主イエス・キリスト御自身の神性を当然の前提(暗黙の了解)として踏まえた上で、御自身が「(完全な意味で神の子ではあってもそれと同時に)完全な意味で人類の一員となっている」ということ──すなわち、御自身の「人性」の方を意識的に強調されておられるように推測される表現である。ダニエル書の「日の老いたる者」とは御父である神のことであり、「人の子」とは御父と同格の権威を有する神性を帯びた御子、すなわち主イエス・キリストのことである。なお、ダニエル書の原文に忠実に日本語訳するならば、「天の雲に乗り」ではなく「天の雲とともに(עִם – im)」とすべきである。ダニエル書7章13節の原文には日本語の「乗る」に該当する動詞は存在しない。同様に、マタイ福音書26章64節の原文には「座す(κάθημαι – kathémai)」に該当する動詞は存在するが、「乗る」に該当する動詞は存在しない。従って原文に忠実に日本語訳するならば、「天の雲に乗って来る」ではなく「天の雲の上にあって(ἐπὶ – epi)来る」などとすべきである。

◯マタイによる福音書24章30節〜31節
「その時、人の子の徴が天に現れる。するとその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大いなるラッパの響きを合図に、み使いたちを遣わす。そして、み使いたちは、四方から、すなわち天の果てから果てまで選ばれた人々を集める」

【注3】「(天の)雲に乗って来る」という表現は、以下に引用する旧約聖書の箇所(サムエル記下22章10節~12節、詩編18(17)編10節~13節、イザヤ書19章1節、そして詩編104(103)編1節〜4節など)を連想させ、「人の子」すなわちイエス・キリスト御自身の神性(来臨の際にはダニエル書7章13節の預言の通り、「日の老いたる者」すなわち御父と同格の権威を帯びておられること)を、象徴的に物語っている。つまり「大いなる力と栄光を帯びて〔来る〕」という事柄を、「(天の)雲に乗って〔来る〕」と比喩的に表現しているわけである。最後の審判について語られているマタイ福音書25章31節の記述「人の子が栄光に包まれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く」と、同24章30節「その時、人の子の徴が天に現れる。するとその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見る」との比較に注意。同16章27節にも「人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る」とあり、既に最後の審判を予告している。さらに列王記上8章10節〜13節それから歴代誌下5章13節~6章2節においても、「雲」は「主の栄光」の象徴として登場している。なおマタイ福音書24章30節の原文には「乗る」に該当する動詞はやはり存在しない。従って原文に忠実に日本語訳するならば、「天の雲に乗って来る」ではなく「天の雲の上にあって(ἐπὶ – epi)来る」などとすべきである。

◯マタイによる福音書16章27節〜28節
「人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る。その時、その行いに応じて、一人ひとりに報いる。あなた方によく言っておく。ここに立っているものの中には、人の子がみ国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない者がいる」

◯マルコによる福音書8章38節〜9章1節
「『神を捨てた罪深いこの時代において、わたしとわたしの言葉を恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光に包まれて聖なる使いたちとともに来る時に、その者を恥じるであろう』。またイエスは仰せになった、『あなた方によく言っておく。ここに立っている人々のうちには、神の国が力をもって到来するのを見るまでは死を味わわない者たちがいる』」

◯ルカによる福音書22章69節
「しかし、今から後、人の子は力ある神の右に座る」

【注4】「力ある神の右に座る」という言い回しで、「人の子」イエス・キリスト御自身が御父と全く同格の存在であることを、比喩的に表現している。

◯マルコによる福音書16章19節
「さて、主イエスは弟子たちに語り終えると、天に上げられ、神の右の座につかれた」

◯ヘブライ人への手紙1章3節
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」

◯マタイによる福音書28章18節
「イエスは弟子たちに近づき、次のように仰せになった、『わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている』」

【注5】ダニエル書7章14節の「権威と威光と王権が彼に与えられ、諸国、諸族、諸言語の民がみな彼に仕えた」とマタイ福音書28章18節の「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている」とは、明らかに対応している。

◯ルカによる福音書21章27節
「その時、人々は人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見る」

【注6】このルカ福音書21章27節の原文にも「乗る」という動詞は存在しないため、「雲の中にあって(ἐν – en)来る」と訳すべきである。

◯ヨハネの黙示録1章7節
「見よ、その方は雲とともに来られる。そして、すべての目がその方を見る。その方を突き刺した人々さえもが。地上のすべての民族はみな、彼の故に胸を打ちたたく」

【注7】黙示録1章7節の原文は「雲とともに(μετά – meta)来られる」という別の表現になっている。同じギリシア語の前置詞を用いた表現は後掲するマルコ福音書14章62節でも用いられており、マルコ福音書14章62節のフランシスコ会聖書研究所訳における表現は「天の雲を伴って(μετά – meta)来る」という日本語である。

◯サムエル記下22章7節〜8節、10節~12節
「わたしは苦境にあるとき主を叫び求め、わたしの神に向かって声をあげた。主は神殿の中からわたしの声を聞き、わたしの叫びはその耳に届いた」
「その時、地は揺れ動き、天の基(もとい)は震え、揺れた。主がお怒りになったのだ」
「主は天を押し下げて降りて来られた。その足元には黒雲。主はケルブに乗って飛び、風の翼で天を駆け巡られた。ご自分の回りの闇(やみ)を仮庵(かりいお)とされた。それは水をたたえた厚い雲」

◯詩編18(17)編7節〜8節、10節~13節
「この悩みの時に、わたしは主に叫び求め、わたしの神に叫び求めた。主は神殿の中からわたしの声を聞き、わたしの叫びはその耳に届いた」
「地は揺らぎ震え、山々の基(もとい)は揺れ動いた。主がお怒りになったからだ」
「主は天を押し下げて降(くだ)り、その足元には黒雲があった。主はケルビムに乗って飛び、風の翼に乗って現れ、闇を周りに巡らし、暗い霧の雨雲を仮庵(かりいお)とされた。み前の輝きに雲は飛び、雹(ひょう)と火の雨が降りしきった」

◯詩編97(96)編1節〜4節、6節
「主は君臨される。地は楽しみ、多くの島々は喜べ。雲と暗闇(くらやみ)が主を囲み、義と裁きが玉座の基(もとい)。火は主に先立って進み、周りの敵を焼き尽くす。主の稲妻(いなずま)は世界に閃(ひらめ)き、地はそれを見ておののく」
「天は主の義を告げ、すべての民は主の栄光を仰ぐ」

【注8】この箇所(2節)において「雲」は、あくまでも「主を囲む」存在である。旧約聖書でも新約聖書でも、「主なる神の現存の象徴」として、しばしば「天の雲」または「雲」が登場もしくは言及されるが、『西遊記』の物語が広く浸透している日本にあっては、「雲に乗って来る」などという表現を安易に行なうと、あたかも孫悟空が用いるような「乗り物」と同じであるという誤解を、読者に与えかねない。全能の神である主なる神は、そもそも移動される際でも「乗り物」など全く必要とはされない。

◯ヨエル書1章15節、2章1節~3節
「ああ、その日、主の日は近い。それは全能者からの破壊のようにやって来る」
「シオンで角笛(つのぶえ)を吹き鳴らし、わたしの聖なる山で鬨(とき)の声をあげよ。この地に住むすべての者は震えおののけ。主の日が来るからだ。その日は近い。それは闇(やみ)と暗黒の日、雲と暗闇の日。山々に広がる暁(あかつき)の光のように、数多くの強い民が現れる。そのようなことはかつてなく、これから後の時代も再び起こることはない。火がその行く手を焼き尽くし、燃え盛る炎がその後に続く。彼らの来る前はこの地はエデンの園。彼らの去った後は荒れ果てた原野のようになる。これから逃れるものは一つもない」

◯ゼファニヤ書1章14節〜18節
「主の大いなる日は近い。それは切迫していて、すぐにもやって来る。主の日の叫びを聞け。そこでは勇者も激しい悲鳴をあげる。それは怒りの日、苦しみと悩みの日、滅亡と荒廃の日、闇(やみ)と暗黒の日、暗雲と暗闇の日。城壁に囲まれた町々と高い櫓(やぐら)を攻める角笛(つのぶえ)と鬨(とき)の声の日。わたしは人に苦悩を味わわせ、人は目の見えない者のように歩く。主に対して罪を犯したからだ。彼らの血は塵(ちり)のようにまかれ、彼らのはらわたは汚物のようにまき散らされる。主の怒りの日には、彼らの金も銀も彼らを救い出すことはできない。全地はその妬(ねた)みの炎で焼き尽くされる。そうだ、主は地に住むすべての者を完全に滅ぼし、一気に絶やされるであろう」

◯哀歌3章44節〜45節
「あなたは、祈りが届かないように、雲でご自分を覆い隠され、諸国の民の間で、ごみのようにさげすまされるものと、わたしたちをなさいました」

◯エゼキエル書34章11節〜12節
「まことに、主なる神は仰せになる。わたしは自らわたしの群れを捜し、尋ね求める。牧者はその群れが散らされたなら、それを尋ね求める。同様に、わたしも自らの群れを尋ね求める。暗雲(あんうん)の日、闇(やみ)が垂れ込める日に、彼らが追放されたあらゆる所から、わたしは彼らを助け出す」

◯申命記33章26節
「エシュルンよ、あなたを助けるために天を駆け、威光をもって雲に乗られる、神に並ぶものはほかにない」

【注9】エシュルンはイスラエルの別称。この申命記33章と次のイザヤ書19章では、「乗る」という表現に該当する動詞(רָכַב – rakab)がヘブライ語原文で用いられている。

◯イザヤ書19章1節
「エジプトについての託宣。見よ、主は速い雲に乗ってエジプトに来られる。主の前にエジプトの偶像はおののき、エジプト人の心は挫(くじ)ける」

◯詩編104(103)編1節〜4節
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ,わたしの神よ、あなたはまことに大いなる方、あなたは誉(ほま)れと輝きで装い、光を衣のようにまとい、天をとばりのように張り、水の上に高殿を築かれる。あなたは雲を戦車とし、風の翼に乗って進み、風をご自分の使いとし、火の炎を僕(しもべ)とされる」

◯詩編68(67)編34節〜35節
「主は天(あま)かける方、太古の天を。聞け、主が声をあげる。力の声を。神の力を認めよ。その威光はイスラエルの上にあり、その力は雲の中にある」

◯使徒言行録1章9節〜11節
「こう語り終わると、イエスは使徒たちの見ているうちに上げられた。一群(むら)の雲がイエスを包んで、見えなくした。イエスが昇って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣をまとった二人の人が彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ、天を仰いで立っているのか。あなた方を離れて天に上げられたあのイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様(ありさま)で、またおいでになるであろう』」

◯マルコによる福音書14章62節~64節
「イエスは仰せになった、『そのとおりである。あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲を伴って来るのを見るであろう』。すると、大祭司は衣を引き裂いて言った、『どうしてこれ以上、証人の必要があろうか。あなた方は、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。これをどう思うか』、一同はイエスが死に値すると決議した」

◯ヨハネの黙示録14章14節〜16節
「また、わたしは見た。見よ、白い雲があり、その雲の上に人の子に似た方が座っており、頭には金の冠を戴き、手には鋭い鎌(かま)を持っておられた。すると、別のみ使いが神殿から出てきて、雲の上に座っておられる方に、大声で叫んだ、『鎌を入れて刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物はよく実っています』。そこで、雲に乗っておられる方が、地上に鎌を投げ入れると、地は刈り取られた」

◯マタイによる福音書17章5節
「ペトロがまだ言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、彼に聞け』」

◯出エジプト記13章21節〜22節
「主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった」

◯出エジプト記14章19節〜20節、24節
「イスラエルの部隊の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らの後ろについた。雲の柱も彼らの前から移動して彼らの後ろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。雲と闇(やみ)があったが、み使いは夜を照らした」
「朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプトの軍勢を見下ろし、エジプトの軍勢をかき乱された」

◯出エジプト記16章10節
「アロンがイスラエルの子らの全会衆に語った時である。彼らが荒れ野の方を向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた」

◯出エジプト記19章9節、16節
「主はモーセに仰せになった。『見よ、わたしは濃い雲のうちにあってお前に臨む。わたしがお前に話しているのを民が聞いて、彼らがお前を永久に信じるようになるためである』。モーセは民の言葉を主に告げた」
「三日目になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛(つのぶえ)が非常に高く鳴り響いたので、宿営地にいた民はみな震えた」

◯出エジプト記20章21節
「民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗い雲の方に近づいていった」

◯出エジプト記24章15節〜18節
「モーセが山に登ると、雲が山を覆った。主の栄光はシナイ山の上に留(とど)まり、雲は六日の間、山を覆った。七日目に、主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光はイスラエルの子らの目に、山の頂(いただき)にある焼き尽くす火のように見えた。モーセは雲の中に入り、山に登った。モーセは四十日四十夜、山に留まった」

◯出エジプト記33章9節〜10節
「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が下って幕屋の戸口に立ち、主がモーセに語られた。民は雲の柱が幕屋の戸口に立つのを見ると、みな立ち上がって各々その天幕の戸口で礼拝した」

◯出エジプト記34章5節
「主は雲の中にあって降(くだ)り、彼とともにそこに立ち、主という名を宣言された」

◯出エジプト記40章34節〜38節
「雲は会見の幕屋を覆い、主の栄光は住居に満ちた。モーセは会見の幕屋に入ることができなかった。雲がその上に留(とど)まり、主の栄光が住居に満ちていたからである。イスラエルの子らは、その旅路の間、雲が住居から離れて上った時は旅を続けたが、雲が上らない時は、上る日まで旅をしなかった。彼らが旅路にある時はいつも、昼は主の雲が住居の上に、夜はその中の火がイスラエルの家のすべての者に見えたからである」

◯民数記9章15節〜22節
「住居が建てられた日、雲が住居、すなわち契約の証(あか)しの幕屋を覆った。それは、夕方には火のようなものになって、住居の上にあり、そして朝まで留(とど)まった。いつもこのようであって、雲が住居を覆い、夜には火のように見えた。雲が幕屋を離れて上ると、イスラエルの子らはそれに従って旅立ち、雲が留まった所に宿営するのが常であった。イスラエルの子らは主の命令に従って旅立ち、主の命令に従って宿営した。雲が住居の上に留まっている間、彼らは宿営していた。長い間、雲が住居の上に留まる時には、イスラエルの子らは主の指示を守って、旅立たなかった。また、雲が数日間しか住居の上に留まらないような時でも、彼らは主の命令に従って宿営し、主の命令に従って旅立った。雲が夕方から朝までしか留まらないような時でも、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも夜でも、雲が上れば、彼らは旅立った。一日でも、一か月でも、それより長い間でも、雲が留まり続ける間イスラエルの子らは宿営し続け、旅立たなかった。そして雲が上れば彼らは旅立つのであった」

◯民数記10章11節〜12節、34節
「二年目、第二の月の二十日(はつか)に、雲が契約の証(あか)しの住居から上り、イスラエルの子らはシナイの荒れ野を旅立ち、最初の行程を開始した。雲はパランの荒れ野に留(とど)まった」
「彼らが宿営を旅立つとき、昼は主の雲が彼らの上にあった」

◯民数記11章25節
「すると主は雲の中にあって降(くだ)り、モーセと語り、彼の上にある霊の一部を七十人の長老の上に置いた。その霊が彼らの上に留(とど)まったとき、彼らは預言したが、その後重ねて預言することはなかった」

◯民数記12章5節、9節〜10節
「主は雲の柱の中にあって降(くだ)り、幕屋の入り口の中で止まり、アロンとミリアムを呼ばれた」
「主の怒りが彼らに向かって燃え、主は去って行かれた。雲が幕屋の上から離れ去ると、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリアムのほうを振り向いてみると彼女は重い皮膚病にかかっていた」

◯民数記14章13節〜14節
「しかし、モーセは主に言った、『エジプト人はあなたが力をもって彼らの中からこの民を引き出されたと聞いて、その土地の住民たちに告げるでしょう。主よ、あなたがこの民の中におられることを、主よ、あなたが目のあたりにお現れになること、つまり、あなたの雲がこの民の上に留(とど)まり、昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、あなたが先に立って進まれることを、彼らはすでに聞いています』」

◯民数記17章7節
「会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、二人が会見の幕屋の方を見ると、雲がそれを覆い、主の栄光が現れた」

◯申命記1章33節
「主は、道中あなたたちに先立って進み、あなたたちが宿営する場所を探し、夜には火によって、昼には雲によって、進むべき道を示された方であるのに」

◯申命記5章22節
「主は、その山で,これらの言葉を、火と雲と暗闇(くらやみ)の中から、あなたたち全会衆に、大きな声で告げられた。しかし、これだけで、ほかのことは何も加えられなかった。主はそれらを二枚の石の板に書き記して、わたしに授けられた」

◯コリントの人々への第一の手紙10章1節〜5節
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてもらいたいと思います。わたしたちの先祖はみな雲の覆いに守られ、みな海を通り抜け、雲の中、海の中で、みな洗礼を授けられてモーセと一致しました。また、みな同じ霊的な食べ物を食べ、みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、後からついて来ていた霊的な岩からでしたが、その岩とはキリストでありました。しかし、彼らの多くは神のみ心にかなわなかったので、荒れ野で滅ぼされてしまいました」

◯知恵の書19章6節〜8節
「全被造物はその本性に応じて新たに作り直された。あなたの命令に従い、あなたの子らを無事に守るためである。宿営地の上を雲が覆い、水のあった所に乾いた土地が現れ、紅海には妨げるものがない道ができ、荒波に代わって草原が現れた。そこを、民全体が、あなたの手に守られて、驚くべき不思議を見ながら通っていった」

◯詩編105(104)編39節
「主は雲を広げて彼らを覆い、火を与えて夜を照らされた」

◯詩編78(77)編12節、14節
「神はエジプトの地、ツォアンの野で、彼らの先祖の前で不思議な業を行われた」
「昼は雲をもって、夜は火の光で彼らを導かれた」

◯イザヤ書4章5節
「主は、シオンの山の全域とその集会の上に、昼は雲を、夜は煙と輝く炎を造られる。まことに、すべての栄光の上に天蓋(てんがい)がある」

◯ヨハネの黙示録10章1節
「またわたしは、別の力ある使いが、天から降(くだ)って来るのを見た。身には雲をまとい、頭には虹(にじ)を戴き、顔は太陽のようであり、両足は火の柱のようであった」

◯エゼキエル書1章4節、25節〜28節
「突然、北から吹き寄せてくる一陣の嵐(あらし)が目に留まった。巨大な雲が閃光(せんこう)を放ち、その周囲は光輝に包まれていた。そのただ中、火のただ中には琥珀(こはく)色に輝くものがあった」
「生き物が静止し翼を垂れていたとき、頭上に広がる天空から声が響きわたった。生き物の頭上に広がる天空の彼方(かなた)に、サファイヤに似た玉座のようなものがあった。玉座のようなものの上には、まるで人間のような姿形をしたものがそびえ立っていた。腰と思われる部分から上には琥珀金(こはくきん)の輝きに似たものがあり、周囲を覆う炎のようであった。腰と思われる部分から下には炎に似たものがあり、その周囲は輝きに覆われていた。周囲を覆う輝きは、さながら雨の日、雲間にかかる虹(にじ)のようだった。これこそ主の栄光の姿で、それを目の当たりにしたわたしは顔を伏せた。その時、語りかける声が聞こえてきた」

◯エゼキエル書10章1節〜4節、18節〜19節
「その時である。ケルビムの頭上、天空の彼方(かなた)に、サファイヤに似た玉座のようなものが現れるのをわたしは見た。主は亜麻布(あまぬの)の服を着た男に仰せになった、『ケルブの下の歯車の間に入れ。ケルビムの間にある燃える炭火で両手を満たし、それを都の上にまき散らせ。』わたしの目の前でその人は入っていった。その人が入っていったとき、ケルビムが神殿の南にたたずみ、内庭には雲が垂れ込めていた。その後、主の栄光がケルブの上から立ち上がり、神殿の敷居に向かった。神殿には雲が垂れ込め、主の栄光の輝きが庭に満ち溢(あふ)れた」
「主の栄光が神殿の敷居から離れ、ケルビムの上にたたずんだ。わたしの目の前で、ケルビムは翼を広げて地上から立ち上ると、車輪を伴って出ていき、主の神殿の東の門の入り口にたたずんだ。その頭上高くにはイスラエルの神の栄光があった」

◯詩編99(98)編1節、6節〜8節
「主は君臨し、諸国の民はおののく。主はケルビムに座し、血は震える」
「主の祭司の中にはモーセとアロン、その名を呼ぶ者の中にはサムエルがいた。彼らが主を呼び求めると、主は答えられた。主は雲の柱の中から彼らに語られ、彼らは教えられた諭(さと)しと掟(おきて)とを守った。彼らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らを赦(ゆる)す神、彼らの不正に報いられる神」

◯ナホム書1章2節〜3節
「主は妬(ねた)む神、復讐(ふくしゅう)する神。主は復讐し、また憤(いきどお)られる方。主はご自分に刃向かう者に復讐し、敵には怒りを燃やされる。主は怒るに遅く、力強い。罰すべきを罰せずにはおかれることはない。主の道は大風と嵐(あらし)の中にあり、雲は、その足で舞い立つ埃(ほこり)」

◯エゼキエル書32章7節〜8節
「お前が消え去るその時に、空を覆って、星を闇に変え、太陽を雲で覆う。もはや月も光を放たない。頭上の空で煌(きら)めきわたる、光のすべてを闇に変え、お前の大地を、闇のとばりで包み込む──主なる神の言葉」

◯レビ記16章1節〜2節
「アロンの二人の子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた、『お前の兄アロンに告げて、決められた時以外には、垂れ幕のうちにある聖所に入り、櫃(ひつ)の上の贖(あがな)いの座の前に近づかないようにさせよ。それは死ぬことのないためである。わたしは贖いの座の上の雲の中に現れるからである』」

◯申命記31章15節
「主は雲の柱のうちに幕屋に現れた。雲の柱は、幕屋の入り口に留(とど)まった」

◯列王記上8章10節〜13節
「祭司たちが聖所を出ると、雲が主の神殿に満ち、彼らはその雲に遮られて、立って奉仕することができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。その時、ソロモンは言った、『主は、密雲(みつうん)の中に住む、と仰せになった。わたしは今、荘厳な家、あなたのとこしえの住まいを建てました』」

◯歴代誌下5章13節~6章2節
「その時、神殿、すなわち主の家は雲で満たされた。祭司たちは雲に遮られて、立って奉仕できなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。その時、ソロモンは言った、『主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。今、荘厳な家、あなたのとこしえの住まいを、わたしはお建てしました』」

【注10】列王記上8章10節〜13節また歴代誌下5章13節~6章2節においても、「雲」は「主の栄光」の象徴として登場している。

◯マカバイ記二2章4節〜8節
「この預言者は、神のお告げを受け、かつてモーセが登り、神の遺産の地を見た山に赴く時に、天幕と聖櫃を携えて、自分に従うように命じました。エレミヤはそこに着き、人が住めるような洞穴(ほらあな)を見つけ、そこに幕屋と聖櫃と香壇とを納め、入り口を封じました。彼とともに行った何人かが、道標(みちしるべ)を作るために戻ってみましたが、洞穴を見つけ出すことができませんでした。このことを知ったエレミヤは、彼らを咎(とが)めて言いました、『その場所は、神がその民を再び集め、慈悲が示されるまでは、知られることはないだろう。しかし時がくれば、主はこれらの物を示されるだろう。その時、モーセの場合のように、また神殿を厳(おごそ)かに聖別することを祈ったソロモンの場合のように、主の栄光と雲が現れるだろう」

【注11】4節の「かつてモーセが登り、神の遺産の地を見た山」とは民数記や申命記に登場する「ネボ山」のことである(申命記32章49節「エリコの向かいにあるモアブの地のアバリム山脈のネボ山に登り、わたしがイスラエルの子らに所有地として与えるカナンの地を見渡せ」)。この箇所(8節)でもやはり、「主の栄光」と「雲」が関連づけられて記述されている。

◯ヨハネの黙示録11章11節〜12節
「しかし、三日半が過ぎると、神から出た命の霊が二人に入り、彼らは自分の足で立ち上がった。これを見ていた人々はみな、大きな恐怖に襲われた。それから二人は、『ここに上ってこい』と言う天からの声を聞いた。そこで二人は雲に包まれて天に昇って行った。彼らの敵もそれを見た」

◯マルコによる福音書9章7節
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声が聞こえた、『これはわたしの愛する子。彼に聞け』」

◯マルコによる福音書13章26節
「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見るであろう」

【注12】マルコ福音書13章26節のギリシア語原文でも「乗る」という動詞は存在せず、黙示録11章12節と同じギリシア語の前置詞が用いられていることから、「雲に包まれて(ἐν – en)来る」もしくは「雲の中にあって来る」と訳すべきである。

◯ルカによる福音書9章34節〜35節
「ペトロがこう言っていると、雲が起こって彼らを覆った。雲に包まれたとき、彼らは恐れた。すると、雲の中から声がした、『これはわたしの子、選ばれた者、彼に聞け』」

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753