ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。
【追記】
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。
ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。
(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649
古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。
主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725
神は本来、神以外の存在に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250
聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神でいることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。