試論:「マルタとマリア」なぜ?を140文字以内で

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではなかった(マタイ20章28節)。故に直に主イエスに対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ルカ10章41節「あなたは多くのことに」の「多くの」に当たるギリシア語は、同福音書の他の箇所では「おびただしい」とも訳され、数や程度のはなはだしさを意味し、大所帯を切盛りできる配慮や才覚がマルタにあったことを示唆している半面、当日のもてなしが「盛り沢山」過ぎた蓋然性をも暗示する。

主イエス・キリストが「神の御言葉」(ヨハネ1章1節)であられる以上、最も喜びとされることは、御自分の仰せになる御言葉に人々が耳を傾けて聞き従うことである。それゆえ主はマルタからマリアを擁護された(ルカ10章41節以下)。ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは神を知ることであって、〜」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
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