試論:「〔永遠の〕命」を140文字以内で

主イエスの仰せの中でマルコ9章43節「両目があっても地獄の火の中に落ちるより片手になっても命にあずかる方がよい」のように、「地獄」に対置される文脈で「命」という表現が用いられる場合、「命」は、「永遠の命」すなわち《天国の福楽》を指す。47節「片目になっても神の国に入る方がよい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マルコ9章43節「両手があっても地獄の火の中に落ちるより、片手になっても命にあずかる方がよい」47節「両目があっても地獄に投げ込まれるより、片目になっても神の国に入る方がよい」マタイ13章49節以下「世の終わりにも天使たちが来て、義人たちに紛れ込む悪人を選別し炉の中に投げ込む」。

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ローマ8章6節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『文字は殺し霊は生かす』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマルコ7章で弟子たちに「人の中から出て来るもの、つまり人間の心から出て来る悪い思いが人を汚す」と仰せになり、弟子たちは箴言4章23節「何を措いても自分の心を守れ。そこに命の源がある」を思い出したはずである。ヘブライ人は人々に幸福や安堵を与えることができるものを「命」と呼んだ。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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