試論:「絶えず祈る」を140文字以内で

ルカ18章1節「イエスは、気を落とさすに絶えず祈らなければならないことを御説明されるために〜」一テサロニケ5章17節「あなたがたは、絶えず祈りなさい」ヨハネ16章24節「あなたがたはわたし〔主イエス〕の名によって願い求めなさい。そうすれば、あなたがたは与えられ喜びで満たされる」。

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ7章で「門をたたきなさい」(7節)「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いか」(14節)と仰せになられたが、詩編118編19節以下には「正義の門よ、開け。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。この門から主に従う人は入る」とある。

(注)別エントリー「試論:『狭い戸口』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節での母の言葉に対し主は4節でその真意を測りかねるお答えをされたが、5節で母は願いが聞き入れられたと確信して召し使いたちに言葉をかけた。フィリピ4章6節「万事、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け、思い悩むのはやめなさい」。

(注)別エントリー「試論:『母の確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

(注)別エントリー「試論:神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の要諦を140文字以内で」も参照のこと。
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カトリック以外の人は、ヨセフがマリアとの間に子を儲けることなく二人は終生童貞だったと聞くと、怪訝に思うかもしれない。しかし大昔ヨセフの先祖は、イスラエルの義人の姿をこう歌った、「唯一のことを主に請い願おう。命ある限り主の家で主の御姿を仰ぎ、日々を過ごすことを(詩編27編4節)」。

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母の終生童貞とルカ1章を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ17章5節で使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」と頼んだ際には主は否定的な反応を示されたが、御受難の前ペトロのために主は信仰を失わぬよう祈られた(22章32節)。安易な意向による願い事を神は好まれないが真面目に求めている人の願いはまた別である(マタイ7章7節以下)。

(注)別エントリー「試論:信仰を増すことを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ルカ22章32節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マナセ王の回心を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。