ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。
【追記】
ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。
(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544
生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。
マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれはダビデの詩編の中で自分の内面を「貧しい」と表現して神の救いを切望している人のことである。