試論:「安心して行きなさい」?を140文字以内で

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

【追記】

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

ルカ1章79節は「救い主」(2章11節)が「我らの歩みを平和の道に導く」と預言を記す。「平和」は古代のヘブライ人にとって物事が好転している状況の総称である。だが19章41節で主はエルサレムがその道を知らないことを嘆いて泣かれた。数日後の御自分の死よりも、そのことを嘆いて泣かれた。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376