試論:「神の子と呼ばれる」を140文字以内で

マタイ5章9節「平和を実現する人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」ルカ6章35節「敵であっても尊重し、善を行い、何も当てにせずに貸しなさい。そうすればいと高き方である天の御父から大きな報いがあり、あなたはその方の子となる。いと高き方は恩知らずや悪人にとっても善い方だからである」。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
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ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。

(注)別エントリー「試論;マタイ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。