試論:「右手や額に刻印」の意味を140文字以内で

黙示録13章16節「右手や額に刻印を」は、古代のヘブライ人には周知の表現で、出エジプト記13章9節と16節や申命記6章8節に同様の記述があり、申命記11章18節では従順また雅歌8章6節では愛情表現とも関連している。「第二の獣」が自身への従順や愛情さえも強要する所業のたとえである。

【追記】

雅歌8章6節は男女の愛情の証として「腕に印章を刻む」という当時の慣用句を用いる。神と神の民の関係を古代のヘブライ人は花婿と花嫁の関係に喩えたが、これを踏まえて黙示録13章を再考すると、「第二の獣」が「小羊」つまりキリストを真似て人々に自分への愛と崇拝を強要する行為の比喩と分かる。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699