試論:「福音書を避ける人」を140文字以内で

エレミヤ23章は、偽預言者たちが「託宣」を捏造して「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々がキリストについて沈黙する一方で世間的な事柄だけ語っていることを、「反キリストの霊」と呼んで非難した。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

エレミヤ23章25節以下では、偽預言者は真の神の御言葉を忘れさせるよう仕向ける点で非常に悪質と説き、28節は偽預言者を「もみ殻」に喩えた。詩編1編4節では「もみ殻」は神に逆らう者を意味し、6節は「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記す。マタイ3章12節とルカ3章17節も同じである。

古代のギリシア語訳エレミヤ書は、エレミヤを陥れようとしていた「預言者」たちを、偽預言者と呼ぶ。また古代のギリシア語訳ゼカリヤ13章2節は、神と民の両方から信用を失って排斥される「預言者」たちを、偽預言者と呼ぶ。その特徴は目先の利得追求が第一の、「貪欲」(マタイ7章15節)にある。

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論;黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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