試論:愛の実践と信仰を140文字以内で

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に自分は主によって救われたいと、真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『善き盗賊』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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