主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせた後、食べ物を彼女に与えるように仰せになった。これは、後に御自身が御復活されて弟子たちの前に御出現になった際(ルカ24章)に、一切れの魚を持って来させ食べられたことと同じで、亡霊を見ているわけではないことを人々に理解させるための仰せであった。
【追記】
エレミヤ10章10節は「神は命の神」と説き、主イエスはルカ20章38節「神は生きている者の神」「全ての人は神によって生きている」ヨハネ14章6節「わたしは命」等と仰せになった。実際、主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせたばかりでなく、十字架の御受難の後には御自身も御復活された。
(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10525
主イエスはヨハネ12章30節で、御父の天からの声(28節)が聴こえたのは、イエス御自身のためではなく、人々が信じて救いに入るためだと仰せになった。主はラザロの死(11章15節)と復活(42節)の際も、人々が信じて救いに入るためにこのようなことが起きるという旨を仰せになられている。
(注)別エントリー「試論:『あなたがたのため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9470