十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。
(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives10267
十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。
(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
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