ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。
(注)別エントリー「試論:『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。
(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書から逃げ回る人』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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