試論:「洗礼者と主の御手」を140文字以内で

ルカ1章66節は洗礼者ヨハネの子供時代を「この子には主の力が及んでいた」(新共同訳)と記すが、これは意訳であり、直訳では「主の御手がともにあった」だが、この場合の「主の御手」とは文脈から明らかな通り、詩編18編36節「右の御手で支えて下さる」のように主の特別な庇護を象徴している。

【追記】

マタイ13章21節の通り、古代イスラエルでは「つまずき」という言葉が「神の御教えを捨ててしまい悪に誘惑され悪事を行うこと」の比喩として広く用いられた。これは当時の人々の「わたしの魂は神に付き従い、神は右の御手でわたしを支えてくださる」(詩編63編9節)という、信念に基づいている。

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。