ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。
【追記】
主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。
マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。
(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501
(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390
(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305
(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300