主イエスはルカ6章45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と教えられたが、さらにマタイ12章36節以下では、その続きとして「人間は自分の話した些細な言葉の全てについて『裁きの日』には責任を問われ、自分の言葉によって義とされたり、あるいは罪ある者とされる」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『実によって分かる』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。
(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストは「人は自分が発したどんな言葉に関しても裁きの日には責任を問われ、自分が発した言葉について義とされまたは罪ある者とされる」(マタイ12章36節〜37節)と舌を制御する(ヤコブ3章)重要性を強調され、心にもないことをつい口走ってしまったという言い訳を認められない。
エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは、神の民の一員となるためにふさわしくない自分の諸々の欠点については、それを捨てなければならないが、それらの自分の欠点がもたらした過去の不始末や、現在に至る日々の厄介事や心配事については、逃げることなく向き合っていかなければならないと、十字架を背負うの表現で仰せになった。
主イエスはマルコ8章34節で「自分を捨てる」ようにと教えられた。この意味をコロサイ3章9節以下でパウロは、「古い自分をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主(=「言」である主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい自分を身に着け、日々このようにして、新たにされる」ことであると説明した。
(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ8章34節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と訊ねたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。
(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』??を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ6章44節「木は実によって分かる」イザヤ3章10節「神に従う人は幸い。その人は自分の行いの実を食べることができる」マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸い。その人は神からの憐れみを受ける」同6章14節「あなたがたが隣人を赦すならば、あなたがたの天の御父もあなたがたを赦して下さる」。
(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。