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「聖母マリアの終生童貞」の聖書的根拠

(以下の聖書の日本語訳は、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

古代のイスラエルにおいては、「会見の幕屋」──すなわち神殿──の入り口にいて神に奉仕する女性たちが存在した。
このことは、出エジプト記38章8節またサムエル記上2章22節の記述によって明らかである。
またこの場合、「幕屋」とは、移動可能な組立式の神殿を意味している。
そしてサムエル記上2章によれば、神殿の入り口にいるそれらの女性が男性と「ともに寝る」ことは、人間による主なる神に対する罪悪に該当する(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)行為であると見なされていたことが、現代の読者にも理解できる。

(注)「会見の幕屋」は、日本聖書協会『聖書』新共同訳では「臨在の幕屋」。

ところで、「神殿」とは、神がお住まいになっていると見なされている建物や、それに類するものを指す言葉に、他ならない。
イエス・キリストを「真(まこと)の神」と見なし信仰や礼拝の対象とする立場で考えるならば、主イエス・キリストがいらっしゃる場所のお住まいは、ベツレヘムであろうと、エジプトであろうとナザレであろうとどこであろうとも、洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれ、言葉の本来の意味で、そここそが「神の家」すなわち「神殿」そのものである。
そしてマリアがイエスとともに同じ住まいで暮らしている限り、実際上マリアは言葉の本当の意味で「神殿にいて神に奉仕する女性」に他ならない、ということになる。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

マリアにとっては、「いと高き方の子」(ルカ1章32節)の母となることをみ使いガブリエルに承諾した(ルカ1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」)ということは、同時に自分自身を「神殿にいて神に奉仕する女性」に位置付けることを意味した。マリアは、近い将来に生まれるであろう「わが子」に対しても、当然のようにためらうことなく、自分自身を「主のはしため」として位置付けていたのである。

夫ヨセフの存命中は、マリアはイエスそしてヨセフとナザレのお住まいで暮らしていたはずであるが、ナザレの聖家族で家庭の主婦であったマリアは、事実上の「神殿にいて神に奉仕する女性」として、かつての婚約期間と同様、夫ヨセフとは全く互いを「知る」(マタイ1章25節、ルカ1章34節、創世記4章1節)ことなく、家族としての日々を過ごしたと考えられる。
まさに、「神殿にいて神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことは、主なる神に対して罪悪(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)を行うことに他ならないと、古代のイスラエルでは見なされていたからである。
その意味では、主イエス・キリストに対する信仰(あるいは主イエス・キリストの神性)を前提とするならば、聖母マリアの終生童貞(及び聖ヨセフの終生童貞)は、むしろ主イエス・キリストの同居家族(それぞれが「神の家」の一員)であるがゆえの必然によるものと言える。

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、あってはならないこと、つまり不祥事であり宗教上の禁忌(タブー)であった。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

モーセの律法で「最も重要な掟」(マタイ22章37節、マルコ12章30節、ルカ10章27節)である「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。」(申命記6章5節)という掟を、聖母マリアと聖ヨセフは「終生童貞」というかたちで全うしたと言える。

聖母マリアと聖ヨセフは、幼子であった主イエス・キリストの御養育と御世話とを、最優先に位置付けていたわけである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012