試論:ゼカリヤ7章9節を140文字以内で

主イエスはヨハネ5章で、三十八年間も病気で苦しんでいた人に健康と幸福を与えられたが、主に反感を抱いていた人々は健康を回復した人に「安息日に床を担ぐことは律法で許されていない」と難癖を付けただけだった。「憐れみの心で互いをいたわり合い、正義と真理(真心)に基づいて、判断しなさい」。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いな理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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【追記】

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で、「他人からしてもらいたいことを自分から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」と、レビ19章18節の隣人愛の掟を再確認された。従ってその直前の17節「心の中で憎んではならない」とは、《理由もなく悪意を抱いたまま隣人に接してはならない》という意味である。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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