マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。
【追記】
主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。
(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。
(注)別エントリー「試論:マタイ25章のタラントンを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ4章24節で「何を聞いているのかに注意を払いなさい」と仰せになった。この仰せは、マタイ13章14節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず〜」に対応するものである。箴言19章27節「教えに耳を傾けるのを怠ってはならず、神の御言葉に無知であり続けてはならない」。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『自分の秤』を140文字以内で」も参照のこと。
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