試論:「あなたは楽園にいる」?を140文字以内で

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の羅列に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
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